遠隔介護ブログ~その後~

家族を見送って後悔のない人はいないよ。

母を亡くした時80歳位の知人に言われた言葉です。

こんにちは、久々にブログを書かせていただきます、コーディネーターの渡邉です。

以前、「遠隔介護ブログ」を書かせていただいてました。
が、遠隔介護していた、祖父も父も亡くなり一旦ブログを卒業させていただきました。

父の死から半年たち、初盆も終わり、わたしの生活は見違えるようにといえばおおげさですが、週末に身体を休める時間が増えました。

平日フルで働き、週末、実家を片付ける、父のお世話をするサ高住に入っても
買い物には行かないといけない、お昼ごはんやドライブも連れて行けとリクエストが多い。平日フルで働いたあとも毎日、数件の父からの着信にこたえる。

という10年以上の日々、わたしの30代は、ほんとに、「しんどかった」の一言につきます。

その反面、母が病気になるまえは私は仕事と遊びでほぼ家にいなかったので、20代の反動の30代と思えば、実家孝行はプラマイゼロなのかもしれません。

母が大好きだったのに、父が死んでからは、母のことより毎日父を思います。SNS時代、母はそこに突入する前の死だったので、私のSNSは父の思い出であふれ、
ほぼ毎日のように過去の写真というSNSの便利なシステムとして、自然にスマホに父がうかびあがってきます。

いつも支えてくれる主人には、父のことを幾度となく、もう、お願い死んでくれていいと口にしてしまったこともありました。それくらい振り回されてましたが、それでも、その父の存在に支えられてました。

私は小中高、皆勤賞でした。
学校が好きという学生時代をおくりました。
それは、父の存在のおかげだったと実感してます。
PTAの行事や役割、役員、自治会のこと、村の発展のためなど、父は地域貢献に尽力してました。
そのおかげで先生方と話をさせていただくのも気軽になんでも行えて、勉強以外の相談もしやすくて、運動音痴なので、体育の授業がある日をのぞいては楽しく学校に行けたのだと思います。

両親も祖父母も、褒め上手だったので、学生時代も、社会人になっても家族に褒めてほしくて、頑張るんだとがむしゃらにこれたのかもしれないと、両親とも亡くなった後、「あれっ、わたし、何してたんやろ」というような、虚無感にも襲われました。

そして、次に襲ってきたのは、
「たら、れば」ばかり。

祖母が脳の病気で倒れたときも、その前夜、母が不在時で、明らかに祖母の言動がおかしかったのに、そのときはまだ「ネット検索」もないし、私も24歳という若さで、そういったことに直面した経験もなく、「旅行帰りだし疲れてるのかな」と思ってしまったこと。
あのとき私がすぐに病院に連れて行ってたら

とか、

母の末期がんも、私がもっと早く母の身体の痛みに気付けていたら

とか、

祖父の入院はあの病院で良かったのか、もっとどこか施設は探せなかったのか

とか、

父の通院に年に数回でも付き添い、改善をもっと本気で向き合えばよかった

とか、、

後悔が溢れ出て、極端に、私が祖父母と両親の寿命を縮めたくらいに思ってしまって苦しくなったり。

そんなときに救ってくれた言葉が冒頭に書いた

家族を見送って後悔のない人はいないよ。

です。

みんな後悔する。いくつになっても、何をしてきてても後悔する。

だからどうしよう、こうしようとまでは、その知人は言われませんでしたが、私の中でだからこそ、自分自身の人生を少しでも後悔の無いように生きるのが見送った家族への最大の恩返しになるんだなという思いが芽生えました。

そして、その知人が教えてくれたように、まわりの人に何か辛いことがあったときに痛みを経験したぶん、私には、かけられる言葉が沢山あるんだという自分なりの「人への貢献」「人への役割」も自覚し、しゃしゃり出るわけではないですが、自然な態度で人を支えていける人間になりたいなぁとあらためて思いました。

そう考えると、「コーディネーター」という仕事はまさしく、その部分を鍛えさせていただける仕事なんだと思えます。

まだまだ至らない点だらけだと思いますがあらためて、
お仕事のご相談をいただく皆さまに「渡邉さんに相談してよかった」「ワークステーションに相談してよかった」と思っていただける存在になれるように頑張りたいと思います。

私の体験した様々な「後悔」は今、看護師さんをはじめ、医療職の方々と日々関わらせていただく中で、自分が、医療や福祉の現場で働かざるとも、皆様の業務のお話から勉強させていただくことが大変多く、あと20年早くこのお仕事させていただいてたら、祖母の脳の変化にも気づけたかもなと思います。

そのように、皆様と関わらせていただけることがネット検索するよりも勉強させていただくことが多いと実感する毎日です。大変ありがたいことです。

経験が自分を助けてくれます。まわりの人を助けることも出来ると思います。

人生に無駄なことはない。本当にそうですね。

この夏、おうち時間を再度楽しむ中で、八歳の姪っ子が、フラフープしながら読書をしたりけん玉したり、楽しそうな動画をTikTokにあげるようになり、それを見ていると「わたしもフラフープしよう」とすぐに購入、始めてみました。

フラフープは体幹を鍛えたり、ダイエットにもつながるそうですが、やってみて、何よりリフレッシュになります。またたく間に上達?出来たと思ってます。

フラフープが届いた初日、3回もまわせなかった私が姪っ子の動画や、フラフープのコツの動画検索して真似るうちに、5日で3分くらいはまわせるようになりました。

父が亡くなり、月2回程度実家には帰り法要や掃除や、片付けなどもしてますがやはり、心身の余裕が出来ました。だからこそ、始められたフラフープ。

読む本の量も増えました。

心身が落ち着いているからか治療中の高血圧も、とっても数値がよくなりました。

コロナ禍でなかなか会えない、母方の祖母や、主人の母(姑)に、出来る孝行を考えて、人生の後悔を、少しでも減らしていきたいなぁと思ってます。

そんな「遠隔介護後の毎日」でした。
ここ数年、年々体が弱くなる父と向き合うのがとてもしんどい日々でしたが、こちらでブログを書かせていただくことも、私自身のリフレッシュにもつながってました。アウトプットの大切さを学ばせていただきました。

今回も長文、読んでいただきありがとうございました♫

 

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遠隔介護ブログ(第1回~第37回)

こんにちは!
メディカリズム編集部です^^

先日、コーディネーター渡邉の『遠隔介護ブログ』が最終回を迎えました。

遠隔介護ブログは、渡邉が仕事・家事・介護(遠隔)を両立する日常をブログに綴ったもので、同じように、介護問題を抱えながらお仕事されている看護師さんの心の安らぎにつながればという想いから始まり、2018年2月からこの3月までの約3年間続きました。

皆さま、いつもご覧いただきありがとうございました。

私たちメディカリズム編集部も改めて初めから読んでみると、いろんな出来事があったなぁ、しんどいことも思わず笑ってしまうことも、自分が経験したわけではないですが、毎月綴られていたブログだからでしょうか、なんだか懐かしく、募る思いがあります。

このブログを今日、はじめてご覧いただく皆さまにも、ぜひ、遠隔介護ブログの1回目から読んでいただきたいと思い、この遠隔介護ブログまとめページを作りました。

下の第1回~第37回をクリックいただきますと、それぞれのページが開きます。

 

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遠隔介護ブログ(第37回)

こんにちは、コーディネーター渡邉です。

遠隔介護ブログ37回。

 

今回で書かせていただくのはラストになるかな、と思います。

なぜなら、遠隔介護が終わりました。

いや、もちろん、故郷に母方の祖母はおり、施設に入居し14年、認知症もすすみ、私のことが誰かはもうわからぬなかですが、月1回の面会は続けてます。が、それは遠隔介護ではなく、ただ、面会に行くという状況です。

 

母の死から12年。もうすぐ13回忌。

身体の弱く、慣れない一人暮らし、祖父が生きていたときは、老老介護をしていた父が、2月末に逝去致しました。

私が日々考え、悩み、ときには逃げたくなるほどしんどくなり、それでも愛しかった父。

 

私は幼い頃から「書くこと」「読むこと」が好きなのですが、それは全て父の影響で、0歳のときから沢山の本を与えられ、読むことの楽しさを教えてくれて。

父自身も沢山本を読んでましたので、そのおさがりをもらったりしながら、そうすると、書くことも好きになり、そんな中で、自分が、この遠隔介護になったときに、会社のホームページのブログの中を借りて、自分の日々を書かせていただくことで、「親をみないといけないから、仕事が続けられない」ではなく、「こういうサービスを利用すれば、地域に相談していけば、自分の毎日も出来るだけ変えずに、親の介護とも向き合えるんだ」と思ってもらえたら、という気持から日々を記させていただきたいと、発信をさせていただくことになりました。

 

ただ、やっぱり、父を亡くしたときに思ったことは、

「もっとそばに、いてあげたかった」

「もっとはなしを聞いてあげたらよかった」

という、後悔の念だらけでありました。

 

お通夜の時に参列してくれた友人に、泣きながらその思いを伝えると「あんたはよぉやったよ、お父さん幸せやったよ。」と何度も繰り返して言われ、その後も私の様子を、身内も友人もそして、会社のみんなも、また、仕事を一週間お休みいただくことでご迷惑かける弊社の登録看護師さん数人にもお伝えしていたので、その方々からも気にかけていただき、本当に温かい言葉をいただきました。

 

昭和のオトコ!のわりにしんどいときはすぐにしんどいと言うし、あまり「我慢」をしないのに自分では無茶苦茶耐え忍んでるというアピールをする父だったので、12月頃からしんどいというアピールが増してたのも単なるわがままだと思ってしまってた私。

本当に辛かったんだと思います。

前回書かせていただいたときに危篤になったあとも復活したのですが、リモート面会でも、自分の誕生日の日付を言ってきたり、両手でピースしてきたり、母の13回忌はコロナ禍でも盛大にやりたいと伝えてきたりして、もう、退院できる日も近いのかな、そうなると、サ高住に戻るより一旦、老健になるかなとも考えてました。

が、再びの危篤の呼出し。

ただそこからも復活し、心拍数が20まで下がったときは、親族全員、病室にも入らせてもらい声をかけ続けました。

が、そこからも復活。

遠方に住む、私の弟夫婦はかけつけれてなかったので、待ってるんやろなぁと言ってました。

そこから2日間、病院の近くで私達夫婦も待機してたものの、落ち着いたなぁと思い家に帰り、ゆっくり寝て翌朝8時すぎに病院からの電話。

最期には間に合わず、病院の近所に住む、父の弟と姪が見送ってくれました。

71歳でした。若いように思いますが生まれつき心臓が悪く45歳までの命と言われていたことや、嫁を亡くして12年と考えると本当によく頑張ったんだと皆さん声をそろえて言って下さります。

 

告別式の朝、叔父がふいに、弔辞してもらう時間をつくりたいなと言いました。

一般人だしサラリーマンでもないから弔辞要らんやろという意見もあるなか、父が入院する一週間前に父がどうしても会いたいと電話し、おでかけしてくれた父のお友達(教師をされてたかた)に、告別式1時間前にお願いすると、こんな直前だから断られるかなと思ってたものの「いいよ。」と言って下さいました。

 

そして、弔辞が始まると、

「保っちゃん(うちの父の名前)、あんたが昔から、わしが死んだら弔事は先生がしてくれてゆうてたけどそのとおりになってもたわ。」という出だし。

そこで私も叔父夫婦も、主人も、弟夫婦も、そして、まわりの人たちみんなが涙をこらえきれなくなりました。

お父さん、そんなん言ってたんや、それを知らんと、私らは朝思いついて、ちゃんと間違わずにお願いしたんやと、これは何か父から見えない力で動かされた気がしました。

生前の想い出、私達子供でも知らないことを沢山語って下さり、どれだけ父が天真爛漫に生きながらも裏表がない人間なので、まわりに愛されてたかを知りました。

弔事の締めくくりが、

「偶然にもテレビから流れてきたKiroroのベストフレンドの歌が、私のそのままの想いです。あなたの笑顔に何度助けられただろう、ありがとうベストフレンド」。

私の涙腺は崩壊しました。

 

遺影を選ぶのに苦労するほどの写真の多さ、

そして、またまた苦労するほどの笑顔すぎる笑顔に、絶対顔にかぶるピースサイン。しかも両手。

たしかにわがまま放題でしたが父はとにかく笑顔でした、笑ってました、ふざけながら人を笑わせてました。

私は父の笑顔に何度も助けられてました。

なかなかあの世代の男性でそんな写真にあふれてる人はいないはずです。

それを見ながらも、弟が、「お父さんがこんなに写真あるのは、しんちゃん(私の主人)のおかげやな。」と言ってくれて、カメラが趣味の主人ですが、父はほんとに被写体として素晴らしい表情やポーズをするので、会うたびに何枚も撮影してくれてて、それを弟が感謝してくれてたことにも幸せやなと思いました。

 

そんな沢山の写真のなかから、1番、穏やかな優しい笑顔の写真を見つけ、みんながこれにしようと意見一致。

母が生きてた頃、もう母の末期がんが告知されたあとでしたが、わたしと弟そして父、母の4人を主人が撮影してくれたときの父。

やっぱり母が生きてた頃が1番父が輝いてたんだと思える写真です。

 

そして、リモート面会で、結局遺言のようになった「お母さんの13回忌は盛大にしよう。」の一言を思い、それを言うために、一度ちゃんと復活してくれたんだなぁ、それがろうそくの火に例えられる命の不思議さなんだなと思いました。

 

母をなくしたときも思ったことですが、もちろん、誰も皆、親を亡くす経験はするわけで、それを経験したときには経験した人にしかかけられない言葉があるわけで。

「親って、体悪くてもええから、生きててほしいやろ。」と父の友人に言われた言葉がほんとに身に沁みます。

 

会うたびに、「かわいいなかわいいな」といくつになっても言ってくれて、わかれるときには「愛してるよ」「大好きやで」と言ってくれて、最後に一緒にでかけた日には手の甲にキスまでされて。

ほんとに独特な父でした。書ききれない思い出がありますが、それを大切に、平均寿命よりずいぶん早くなくなった両親の分まで元気に生きていきたいと思います。

この写真は父が母に送った婚約指輪のダイヤを、母がわたしのためにネックレスにしてくれたものと(そこにわたしの誕生石もつけてくれてます)、父が大事にしてたキーホルダーをわたしにピアスにしろとくれたので、手先の器用な友人に頼みピアスにしてもらったもの。

大切な宝物です。

が、父が亡くなってから仕事以外の日は毎日のようにつけてたこのピアスがなぜか、今日、父の7日ごとの法要の2回目の朝、、なくなったんです。

どこを探してもない。

いつまでもめそめそするな前を向けと、ピアスも旅立っていったんじゃないかと考え、この遠隔介護ブログもここで終わらせていただき、この濃い濃い12年の経験を今後の自分に活かせるように前向きに生きていきたいと思います。

 

これからはまた楽しいテーマでブログ書かせていただける日がありますように。

 

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遠隔介護ブログ(第36回)

こんにちは、コーディネーター渡邉です。

遠隔介護ブログ36回。

 

前回は、「父が入院するかもしれない」というところで終わらせていただいてました。そこから3週間ほど経ってブログ更新させていただきます。

 

即日入院しました。

 

その日、朝ごはんをサ高住で食べ、デイサービスに行くための準備中にしんどくなったようで、自分で救急車を呼ぼうとしたところを管理者さんがきづいてくださり、主治医に連絡。近くの病院に紹介いただき、検査の結果、心不全(これは慢性的ですが)とびっくりするくらいの低酸素、腎不全(これも慢性的ですが)で即日入院、即酸素マスクとなりました。

当日は、ケアマネさんが付き添ってくださったので、私と主人は翌日会社にお休みをもらって入院手続きや、市役所での高齢者の入院のときの医療費限度額などの手続きに行きました。

緊急事態宣言中であっても、個室病棟の父とは5分位ならと面会させていただき、酸素マスクしていても会話ができ、私達の顔を見ると「お腹すいた、今日、どこ食べに行く?」といつもどおり、お昼ごはん連れ出しに私達が来たと思ったのか普通に会話してきた父。

顔色も落ち着いていたものの食事は抜きで点滴のみだったので、お腹もすいていたようで、お腹すいた、なんか食べさせてくれと言ってました。

退院したら焼き肉行こなと普通の会話をして、長くいれないからと、病室をあとにすると、個室の父の部屋から大きな声でまだ私達に話しかける声が聞こえ、ちょっとかわいそうになりました。

看護師さんにお聞きすると、ほんとに大きな声で話されてますよと。

ドクターからも命に別状はありませんとのことで、次からはやはり、直接面会ではなく、受付からのリモート面会になるとのことだったので予約しないといけなくて、翌週の土曜にリモート面会を予約して病院をあとにし、父のサ高住にむかい、2週間ほどの入院になると聞いたので、冷蔵庫の中の腐りそうなもの片付けたり、父が寝てたらできないベッドまわりの掃除もしました。

その前に、管理者さんたちもお掃除してくださってたので、父がなくしたと騒いでたものも出てきてました。

貴重品を持ち帰り、そのなかには入院中はとりあげられた携帯電話もありました。

そういえば、少し面会できたときに「携帯がないから不便や、時間がわからん、充電しといてくれ。」とも言ってたので、ほんとに家族や友達とのコミュニケーションツールである携帯電話が父の宝物なんだなぁと思いながら、父の携帯電話も持ち帰りました。

かわいそうだけど、父は安全なところにいれるし、寒い中、温かい病室で看護師さんにもよくしてもらってるし、コロナも心配なさそうだし、わたしも毎日の父の電話から解放されて少しだけ心の負担が減った数日後、

仕事をしていると、入院している病院から電話が。

すぐに出れない状態だったので折返そうとしたら、叔父からのライン。

 

「父危篤、すぐ帰れ」

 

電報かよと、ツッコむ気にもならず、すぐに主人に電話。

命に別状はないと聞いていたのでパニックになり、号泣し叫ぶように主人に今すぐ帰るとうったえました。

会社にも状況を話し、その日わたしは偏頭痛でフラフラで働いてましたが、それどころでもなくなり、まわりのかたに自分の仕事を少しずつお願いして近くで働く主人と待ち合わせて一緒に病院にむかいました。

 

ほかの近しい親族にも連絡をしながら。

会社から病院まで2時間かかります。お願いやから、もってほしい、頑張ってほしい、祈りながら。

叔父が先にかけつけてくれてますが、やっぱり娘や息子には会いたいだろうと思います。必死に電車の中でも気持ちを走らせてました。

結果、私達がかけつけたときには持ち直し、少しなら面会できると聞いて面会させていただき、手を握ると握り返すほどに。

安心しましたが、ドクターから説明をうけた叔父は、よくない状態だということも理解し私達に説明してくれました。

弟家族もかけつけましたが、もちろん父の孫たちは、幼いのでこのコロナ禍、面会することは出来ず。

今日明日でなにがあるかわからない、一旦それぞれ、家に帰って準備しようと別れ、不安なままの夜。

なかなか寝れないでいると夜中の1時半ごろ、病院からの電話。

 

もう、、あかんのかな、

 

そう思い電話をとると、看護師さんの必死な声。

「お昼間説明したように、気管切開をするかどうかが迫られるかもしれません。ご家族ではどう考えられましたでしょうか。」と。

 

実は昼間、ドクターの説明をうけた叔父から酸素マスクでもう難しくなったとき、生きるためには気管切開が必要になる。気管切開をすると、その後、やはり管理が大変であるなど、様々考えられる将来のことを聞き、社会福祉士である弟もその状況をよく理解し、これは「延命治療、しますかしませんか」の質問であると私達に話してくれ、話し合った結果、「気管切開はしない」という選択をしてましたので、それを伝えるだけなのに私のこの言葉が、父の命を終わらせることになるのかもしれないと思うと苦しくて嗚咽し、しぼりだした言葉で「気管切開はしません。」と伝えるのがやっとでした。

 

看護師さんからかえってきたお言葉

「こんな時間にむごい事聞いてごめんなさいね。でも、お父さん頑張っておられます。わたしたちも頑張りますから!」

という温かくそして強い声に心がとても励まされ涙もおさまり、そこから2時間ほどやはり、眠れずにいたものの、4時頃には寝れたのか、案外すっきり翌朝6時に目覚め、再度仕事に。

 

偏頭痛はなんとかおさまり、その日もいつ呼び出されるかわからないと必死に午前中、前日帰ったぶんも含め仕事し、このしんどさも聞いてもらいたくて同僚を誘いランチに出て注文したところでまた病院から電話が。

「もう、夕方までもたないかもしれません」

看護師さんの声。

ある程度前日に覚悟できた分、取乱さず、また主人や親族に連絡し、病院にむかいました。

が、そこから2週間たった今、父は、

生きてます。

頑張ってます。

そして今もまさにリモート面会(面会とはいえ、父は意識がないので、様子をみせていただき、寝ている父に画面越しに呼びかけるだけですが)に向かってます。

この期間、父、サ高住のケアマネさんや管理者さん、親族、そして、会社の上司、同僚、病院のドクターや看護師さん、そして、日々仕事で連絡をとらせていただいている、派遣看護師さんの皆さんに、あらためて感謝することが沢山ありました。

が、それはまた長くなりますので

次回たっぷり書かせていただきたいです。

そのときも、父が生きていて、少しは意識を取り戻していることを祈るばかりです。

ただ、コロナ禍で、面会禁止、元気になっても外出制限のなかでは出掛けたい、人に会いたい、いろんなもの食べたいの父だと、ストレスだらけだったと思うのでコロナが少しおさまるまで意識がないのもかえって幸せなのかもなと親族では話し、わたしは父は冬眠の技術を身に着けたのだと思うことにしました。

熊さんのように。

春には元気になった父と暖かい日差しの中、出かけることができますように。

リモート面会、このコロナ禍でも工夫をしてくださる病院に本当に感謝しながら、今回のブログを締めくくらせていただきます。

写真は実家の庭にある南天の実です。

南天は、家内安全という意味があるそうです。

父の部屋にも飾りました。

もちろん病室には持っていけませんが、南天の実が、どんなかたちでもいいので父を守ってくれますように。

 

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遠隔介護ブログ(第35回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。

2021年もどうぞ宜しくお願い致します。

 

遠隔介護ブログ35回。

前回のブログでは、コロナ禍や実家の寒さを考え、父と年越しをしない事を決め、それが本当に決行できるかどうか悩んでる事を書かせていただきました。

結果、出来ました。が、なかなか大変でした。

クリスマス前くらいからどんどん不穏になった父。
家に帰りたいとなぜか夜中に救急車を呼んでしまったり、今住んでるサ高住のスタッフさんたちに悪態づいてこんなとこにおられへんと、夜な夜な電話してきたり。

年末、わたしも忙しくあまり電話に出れないと留守電にそれが何度もふきこまれ、夜遅く、仕事でも疲れた中で折り返し電話したら、「なんで連れて帰ってくれへんねん!」 と怒鳴られたりもして、私自身も心が折れそうになり、クリスマスイブにとうとう号泣。

主人がわたしの弟に連絡し対応を相談してくれると、弟も同じように電話を父から多くうけていたようで、もしかしたらもうサ高住+デイサービスというある程度自立した中で、食事や入浴、生活を介助&サービスしてもらってる状況での生活は難しく、介護度も入居当初より上がっているため、特養など、常に見守られる環境でないと厳しいのかもしれないので、一度今お世話になってるケアマネさんにも弟から相談してくれる事になりました。

そして私は、自分のために父からの電話を、平日は着信拒否することに。

祖父や祖母が施設や老健に入居時、「帰りたい。」と会うたびには言ってたものの、携帯電話を持ってなかったので会わない日はその訴えに苦しめられることはなかったですが、父は施設ではなく、あくまでも、サービス付きの住まいで携帯電話も持てるので、自由に訴えてきます。

それを拒否してみたら少しは楽になる、きっとなにかあればケアマネさんや管理者さんが電話くれるから大丈夫と。

今までは、私が無視したら、サ高住のスタッフさんたちに八つ当たりするんじゃないか、弟に鬼電するんじゃないかと思い、まずは私が受け止めようと思ってましたが、自分がつぶれてしまってはもっとみんなに迷惑かけると思い、着信拒否を思い切ってみました。

すると、案外数日後の土日、着信拒否を解除して久々の父からの電話をうけると、ワガママもなく、「なんで電話出んかったんや?」もなく、ただの日常の報告だけでした。

案外大丈夫やんと、ホッとしたり不思議すぎたり。

そしてそのあとの年末。大晦日に会いに行くとやはり何度も説明してきた「年越しは実家で出来ない」は通じてなく、また泣き出しました。なんでやねんなんでやねんと。

どう説明しようかと思ってると、「介護さんも誰もきてくれへんやろ、ほったらかしにされるやろ、お父さん以外のひと、みんな家に帰るんやろ。」と。

あっ、そうやったんや。。と気付いた私と主人。

説明不足でした。

父以外の入居者さんもお正月はほぼ自宅に帰らないと管理者さんにもうかがってましたし、デイサービスは数日休みですが、スタッフさんはもちろん出勤されてます。お掃除がないくらいです。

それは私達は理解してましたが父にはわかってるだろうと説明できてませんでした。

寂しかったんやね、怖かったんやね。

ほかの方々のことも、スタッフさんたちの体制も説明すると、「そうかわかった。」とのこと。

そのあとはニコニコとおだやかになり、ライン電話で孫たち(私の弟の娘たち)の顔みせてあげると喜び、普通にお昼寝して、またな〜と手をふってきました。

お正月もお雑煮やおせち料理をいただきとても喜んで、報告してくれました。

私は父の好物の数の子を塩抜きして味付けして持っていきましたが、、結局あんまり食べてませんでした。出していただいた食事のほうが美味しかったみたいです。

管理者さん、ケアマネさん、介護士さんたちのおかげで想像よりおだやかにお正月を過ごしてくれて特養入所などはもう考えなくてもいいかな、、
と考えてた矢先。

少し心穏やかに仕事をしてますと、ケアマネさんや管理者さんから着信が数回。昼間は仕事をしてるので、電話には出れないとショートメールいただけるのですが、そこで確認。

「お父様、入院になりそう」と。。

新年1回目の遠隔介護ブログも長くなってきましたので、この騒動はまた次回書かせていただきます。

 

今回の年越しで学んだこと。

父の反応で学んだこと。

相手に何かを伝えるとき、特にしんどい内容を伝える時は、相手に疑問点や不安点を残さない、どこにしんどさがあるかをしっかり想像しながら、話さないといけない、頭ごなしに「わがままを言ってきてる」とこちらが苛立ちで返してはいけない。

ということ。

正直過ぎる父とのやりとりから、本当に学ぶことは多いです。

そして自分が混乱してきたときにはちょっと逃げてみるのもいいのかなと、着信拒否の決断からも勉強しました。

 

そんな2021年の幕開け、3府県に緊急事態宣言も出てますので、またまたステイホームの中ですがこの本を読んで、大好きなお笑いの勉強(笑わすのは苦手ですが、漫才を観るのが幼少期から大好きなので)をしてます。

年末に毎年あるM-1グランプリは自分の誕生日より大切な行事。

そのM-1グランプリの内容の分析、そこで勝つための方法など書かれてます。

生き方もやはり、過去の事例から、分析して工夫していくことが大事だとこの本からも漫才を人生に置き換え学んだりもしてます。

コロナ禍がまだまだ続く中、沢山笑って免疫力をあげていきたいものですね。

 

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遠隔介護ブログ(第34回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。

いよいよ年末になりましたね。
コロナコロナの1年。

第3波がここまで威力を増すとは想像していなかったので看護師さんにお仕事を紹介するという日々の私の仕事のなかで、医療現場のかたの想像を絶する大変さ、日々の不安、そして、人手不足、コロナ感染より怖い周囲のコロナ差別など、かなり身につまされることが多い日々です。

ただ、毎日いろんな看護師さんとお話させていただくなかで、今しか学べないことを学びたいと、自ら、コロナ感染者さんの看護ができる現場への勤務を希望されるかたもたくさんおられ、看護師さんだけではなく、臨床検査技師さんたちも、PCR検査に関わるお仕事を多くのかたが希望してくださり、医療職の方々の、向上心や、社会貢献への強い思いなどを改めて知ることができ、ほんとうに尊いお仕事に就かれ、志高く仕事をされているということに、尊敬の念が増すばかりです。

私が、わたしの立場で出来ることを、日々考え、動き、自分としての今出来る社会貢献を精一杯していきたいと思います。

世間がコロナ対策で大変な中、、
このブログの主役、父は、、
相変わらず自分中心の世の中を生きておりまして。

どれだけ、コロナ禍で、遠出が難しいこと、他の高齢者施設のほとんどが、家族面会すら禁止されていること、だから父の入居させていただている施設が面会も、近場であれば外出もオッケーしてくれてることは本当に寛大で幸せであることを説明しても、、翌日には忘れて、不自由や、出掛けたい、不幸やと連絡してきます。

なので、前回のブログで書いた「今年の年越しは一緒に出来ない、施設にいてほしい」を伝えるのは一苦労でした。

でした、、というのは、やっと伝えられたので過去形にしてます。

とにかくお正月に自分の実家では過ごせない(施設の暖かさに慣れた父には、日本家屋の実家は風が通りすぎて寒すぎる、バリアフリーではないのでトイレいくのも大変、大阪市内で働く私たちと一緒に居すぎてもしコロナ感染となったら大変等)というのを、かみくだいて理由も話したところで、「大丈夫や、帰りたい。」としかならないのは目に見えてます。

父の大好きなお寿司やさんでランチしながら耳の遠い父に誤解なく伝えられるように 紙に太いペンで大きな字で伝えたいことを書きました。

「年末から私は入院します。大晦日のお昼間だけ外出許可出たので、数の子とおせち料理持ってくるね、だから年越しは一緒に出来ない、ごめんね。」と。

入院は嘘です。辛いですが、それしかないと思いました。父は最初、楽しみにしてたお正月なのに、実家に帰れないと嘆き始めました。

主人が横で、わたしの入院より自分の楽しみが叶えられないことを嘆く父に呆れてましたが、私が、「おばあちゃんも、お母さん(私の亡き母)が入院中は施設で耐えてくれてたよ。」と書くと、泣きそうな顔になったあと「持ち帰りできつね(いなり寿司)が欲しい。」と、急に話題を変えてきたときはわたしも主人も爆笑してしまいました。

その後も、
「お前は大丈夫や、お父さんがついとるからな。泣いたらあかん、お父さんがついとるからな。お前まで失いたくない、夫婦二人で長生きしてほしい、お父さん頑張るからな。」と、まるで自分に言い聞かせるように何度も言ってきました。

そして、大丈夫やで、もう帰りやと私たち夫婦を施設から帰した2分後くらいに電話してきて「小銭入れがない。」と大騒ぎ。すぐに施設に戻り一緒に探すことに。なんともかんとも、感情の起伏が激しい父に振り回されます。

施設の介護職さんにも「お父さんはにくまれへんねん、わがままやし頑固やけど、すぐごめんなさいゆうてくれはるからね。」と言われました。

たしかに。。だから亡き母も、わがままで頑固な父を放っておけなかったのかもしれません。

トイレには行けるけど、ズボンをあげるのに時間がかかるので、私がいるときは、ズボンをあげてほしいと言います。
介護の勉強してない私も、トイレ介助をしたり、車椅子から立たせたり慣れないことだらけで奮闘し、上手くできず父を怒らせることもあります。

そんな私に主人が、「俺らには子供がおらんから、子育て学べない分、お父さんの介護で学ばせてもらってるな。」と言ってくれました。

ありがたい言葉でしたし、上手くできなくてもいいんだと思えました。

父に嘘をつくことも、もちろん心が傷むものの、私が全力で父と向き合い、疲れてしまってはもともこもありません。父に機嫌よく向き合えるためにも休憩出来る時間、父と向き合う策を考える余裕をもっておきたいと感じる日々です。

それを悪と感じないようにしたいです。

 

コロナ禍でなかなか友達に会えずリフレッシュもしにくいですが、読書や映画鑑賞はそんな私を助けてくれます。

12月ももう三本の映画を観ました。その中でも一番心を打たれた、「ミセス・ノイズィ」。

ご近所付き合いの中のすこしのずれが日本中を巻き込む大事件になるのですが、この物語、物事を正確に判断するには一方向からだけで見てはいけないということを教えてくれる、本当に勉強になる映画でした。

コロナ禍のなかでも、人が人を傷つけるようなニュースも沢山あります。無駄に他人のこころをしんどくさせない生き方をしたい、、そのためにも、観ておいて損はない映画でした。

 

さてさて、来年はどんな年明けになりますか、私はほんとうに穏やかに紅白歌合戦が観れるのか。また来年のブログで報告させてください。

世界中にコロナ禍のために故郷に帰れない方々、ご家族や会いたい人に会えない方々が沢山おられます。それに比べたら、ささやかすぎる位の悩みではありますが。。。

皆様も良いお年をお迎え下さいませ。

 

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遠隔介護ブログ(第33回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。
少しご無沙汰してました。

遠隔介護ブログ33回。

落ち着いていたのかというと、比較的落ち着いた日々だったのかもしれません。

サ高住に入居して、半年がたつ父は、ようやく、暮らしにも慣れ、気心知れた介護職さんも数人でき、娘(私)に頼んだらけむたがられるような買い物も気軽にお願いできる施設内のスタッフさんにあれやこれやお願いし、お金を使いすぎたと嘆くことはあれど、初期のようにデイサービスを仮病で休んだり(そうなると、お風呂の回数も減るので体臭もしてました(T_T) )、施設のご飯を食べたくないと、お皿を投げてしまったり、自分の言葉が通じないと、「死にたい、自殺する。」と大騒ぎしたり、そんなもろもろはなくなり、施設のかたからの日々の報告、相談の電話もなくなりました。

これはひとえに、施設の方々の支え、協力あってこそで本当に家族のように一緒に考え、時には励ましてくださる施設の皆さんに感謝です。

同じ入居者さんたちのなかではおそらく、父が1番年下だと思いますが1番身体は不自由な感じだし、1番ワガママなので(笑)、ほかの入居者のおじいさまからも「お父さん、がんばってはるよ。」とか、おばあさまからも「よくみてあげてね。」などお会いすると声かけてくださる方がおられて、あ〜このサ高住にご縁があって良かったなぁと思うのです。

 

ここに、巡り会えたのは、数年前からお世話になってたデイサービスのときのケアマネさんがおられたから。

父の性格をよく分かってくださったうえで、施設形態としてもサ高住が良いこと、地域はこの地域なら友人や親戚も遊びに来てくれやすいことなど、様々な状況をふまえて選びご提案くださいました。

そして、弟も即動いてくれ、あれよあれよと、入居が決まりました。

予算ももちろんありますが、そこを考えると将来的な不安も出てきますし(元気でいてほしいけど、○年以上長生きするとお金がなくなる。。と)、どんな道を選んでも絶対ベストとは言えないとは思うのですが、年老いていく一人暮らしの父のことを考えるうえで、今回のサ高住を提案くださったケアマネさんには一生感謝するなぁと思います。

「もし、今年も、父があの田舎の家で一人暮らししてるとしたら」と考えると、冬の寒さ、コロナで外出も自由にしにくいことなども合わせて、絶対に不可能だったと感じます。

そう考えると、ほんとにギリギリまで一人でよく頑張ってくれたんだなぁと父のことを褒めてあげたくもなるのです。

 

生きていく中で、困ったときに相談できる人、アドバイスをくださるプロがまわりにいてくださることの大切さを日々感じます。

父と祖父の老老介護が始まったときに、「めぐみちゃん、もう、自宅だけでは無理や、まずはデイサービスと訪問介護、相談してみ。」と言ってくれた亡き母の親友の言葉も忘れられません。

相談するには勇気も時間もいります。

平日仕事してると、休んでまで、何か手続きをしに実家に帰ることにもかなり面倒さがあります。

でも案外、土曜も対応くださったりちょっとした相談は、平日時間外でもメールしてると、翌日メールで返事いただけたりもして、よっぽどじゃない限り(年に2、3回)は、平日に休みとってまでということもありません。

 

この少し落ち着いてきた日々のなかで次のわたしの課題は、「父をすねさせずに、施設で年越しをしてもらうように話すこと」です。

わたしは嫁いでからも、義母と主人の理解をもらい、年越しは実家でしてました。

男手一人で頑張っている父のそばにその瞬間はいてあげたいと思ってきました。

弟家族も同じように考えて毎年にぎやかな年越しができました。

途中からは施設に入ってた祖父も本当に身体が弱るギリギリまでは年越しだけは家でと、みんなでやってきたのですが、今年はコロナ禍であり、おそらく弟家族は帰れない。そして、実家は田舎の比較的大きな一軒家なので、今の父の部屋の暖房設備とは全く違い、どんなに暖房器具をそろえても全部の部屋が温まりきることはありません。

その上、暮らしていた頃は対応できてた階段の登り降りも、最近はとてもきつそうで、数時間なら滞在できても泊まりで、トイレも行き来する中で実家で過ごすというのはほんとうに不安で、わたしや主人が全く心が休めない年越しになりそうだと思い、もう、私達も元気いっぱいという年齢でもなくなってきましたし、うちの家に連れて帰ったとて、それこそ都会の真ん中、コロナ禍の怖さ、すべてがバリアフリーではない不安さもあり、施設に確認すると、ほかの入居者さんはほぼ、年越しも施設でされるということだったので、なんとか11月中に父には話し、何度も紅白歌合戦観ながら電話するから、また年明けにすぐ会いに来るから、年越しだけは安全のために施設で過ごしてほしいと話さないといけないなぁというのが、小さいことに思われるかもですが、父のかまってちゃんの性格を考えるとなかなか大きな課題ではあります。

 

父自身も、最期、療養病院で一人で亡くなった祖父のことを忘れられず、「看取ってあげられなかった。」と、日増しに悔やむようになり悪夢にうなされることもあるというので、それは、私達へももっとそばにいてほしいという本音のあらわれだと思うのですが、月に2、3回、ご飯と買い物に付き合う娘夫婦なんて、そこそこそばにいるほうだと思うので、そろそろまだ恵まれてるよと理解してほしいなぁと願います。

 

まだまだ空き家問題も抱えたままですし、新しい年にも問題を持ち越すのが決定の私ですが、悶々とする日々のなかでも1番のストレス発散は、映画鑑賞。

ここ2回たて続けに観た邦画、「浅田家」「罪の声」は、本当に、一生心に残ると言っても過言でない映画でした。

浅田家は実際の写真家さんの物語。

罪の声は昔発生した事件の真相がこうだったんじゃないかという、誰もが知る昭和の未解決事件を題材にした物語。

浅田家の浅田さんには、題材にされてる「家族写真」いつか撮っていただきたいと思います。写真展も行きたくなりました。

罪の声の原作者、塩田さんは私の大好きな小説家、湊かなえさんのお知り合いで、湊かなえさんもとても絶賛されている小説家さん。

それだけでもう、ファンになりましたが、その原作を忠実に、そして、誰にでもわかりやすく、あの事件を知らない世代にも伝わるような作品にされてる、映画のスタッフさんにも感動です。

コロナの第3波がきているともいわれる今、感染対策ばっちりの映画館で日本の映画ならではの情緒がしっかり反映された映画鑑賞、おすすめです。

来月は「新感覚三国志」を観るのがとっても楽しみです。

 

さてさて、私の年越し計画はうまくいくのでしょうか。父のために父の大好きな数の子も注文し、大晦日にしっかり塩抜きをして差し入れしようとも考えてます。

娘の思い、父にうまく伝わりますように。我が夫婦に平和な年越しがおとずれますように。皆様にも穏やかな年末年始がおとずれますように☆

 

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遠隔介護ブログ(第32回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

遠隔介護ブログ32回。

まだまだわたしの年齢の数字は追い越せませんが、ここまで書かせていただき、だんだん「読んでますよ」と言って感想もくださる看護師さんが増えてきて本当に嬉しいことだと思います。

まだ弊社に登録いただく前の看護師さんからも、ご登録でご来社予約をいただくと、弊社のホームページから私のプロフィールやこのブログも読んでいただいた上でご来社いただいてお話くださるのでとてもありがたく、もちろん照れますが、もっともっとありのままのお話をここで伝えさせていただきたいなぁと思う日々です。

 

コロナ禍はまだまだ続いてますね。半年前には、こんな秋も想像が出来てませんでしたが、いろんな価値観がこの半年で変わっていきました。

そのなかで、マスクの在庫管理はどこのおうちでも、とっても重要視されているのではないでしょうか。

手作りマスクや夏の冷感マスク、私のようなプロ野球好きには、各球団のオリジナルマスク、、様々なマスクを家にかなりの数置いてます。

毎年、兵庫県の家庭では、その家独自の「いかなごのくぎ煮」を作って知人宅に分け合うような習慣があるのですが、海がきれいになりすぎて今年はいかなごが本当に獲れなかったそうで、そのかわりに今年は「手作りマスク」の贈り合いが新しい文化になった(いや、きっと、くぎ煮のかわりではないのですが)ように思います。

不織布マスクもどんどん値崩れして、コロナ禍前の値段に戻ってもう買えない世の中ではなくなった9月、、

主人から「忘れてたけど当選したよ」と言われたもの、、それがシャープさんのマスクでした。

そういえば、申し込んでました。

値段は、いま、ちまたで売られてる日本産ではないマスクの3倍位はしちゃいますが、せっかく当選したし、まぁ、質は間違いないし今年のこの状況の記念として買っておこうということで、購入権使いました♫

 

そんなWithコロナの時代。

GO TOキャンペーンを利用して、父が前から行きたいと言ってた淡路島のホテルに旅行に連れて行ってあげようかと、デイサービスで歩く練習も頑張ってるしサ高住での日々もようやく落ち着いてきたので、父にも楽しみを増やしてあげたいと企画した旅行ですが、企画した頃、ホテルを予約した頃は少しおさまっていたコロナの新規感染者数もまたまた増加し、ついに父のサ高住やデイの近くの高齢者施設でも数名感染者さんが出た為、不特定多数のかたと接触するようなところへの外出は控えてほしいと父のサ高住のケアマネさんからもお話があり、旅行を断念。

短気でワガママな父にどう話そう、ようやく気分が落ち着いてきたのにまた荒れたらどうしよう、ヒヤヒヤでした。

もちろんそんなこともあるかもしれないとは思っていたので、父の部屋のカレンダーに「淡路島旅行、ただコロナおさまらなければキャンセルあり」とは旅行予定の日付のところに大きく書いてはおりましたが、電話では言わず会って顔見て言おうと。

 

私 「この近くで、コロナの感染者さんよぉけ出てたね。」

父 「せやな。」

私 「おばあちゃんとこの施設は、面会に行かれへんなったけど、ここは、面会と市内なら外出させてくれるからありがたいな。」

父 「せやな。」

私 「ほんでな、お父さん、市内はええけど、やっぱり淡路はあかんみたいやわ、ごめんな、こんだけ兵庫県も広まってたら、やっぱり行かれへんわ。だいぶケアマネさんらも考えてくれはったけど、お父さんがもろてきて、施設でひろめたら、お父さんより高齢のかたばっかりやから、命にかかわるからなあ。」

父 「やっぱりあかんか、行きたかったなぁ、なんもかんもあかんするな、コロナは。しゃあないな。」

私 「せやから、その日は焼き肉食べに行こか。」

父 「焼き肉嬉しいな。」

 

良かった、なんとか話ついた。。
と、ほっとした私。

GO TOキャンペーンが終わったとしても、また父を淡路島のあのホテルに連れて行ってあげたいと思いました。

 

このキャンセルになった旅行、人生で初めて、車椅子でも大丈夫な部屋ということで探したのですが、父の行きたいホテルが決まってたので、余計かもしれませんが、もしそこが無理ならとほかの淡路島内の旅館、ホテルで車椅子オッケーも探しましたが、けっこう、普通に行くよりお金が高かったり、「部屋はオッケーだけど食堂が掘りごたつだから座敷に上がって歩かないといけない」とか、色々、難しさがありました。

旅行だけではなく、車椅子の父を押しながら例えば300メートル位歩くだけで、「段差なんて感じたことないのに、こんなにガタガタしてるんや」とか、「こんなに道が傾いてて押しにくいんや」とか、自分にとってはなんともない道で不自由をたくさん感じます。

10年以上前、母の終末期はがん患者さん専門の病院で迎えたため母の車椅子を押すのはバリアフリーの整った院内のみ。

なので、普通の町で暮らす父の車椅子を押す度に、自分がどれだけ車椅子を扱うのが下手か、車椅子の方々がどれだけ日々の暮らしに不便や危険を感じておられるかを実感します。

 

そのうえ、、車椅子を押してる時、自分の心に余裕があるかないかでやっぱり押し方も変わるし、父を危険な目に合わせてしまう事もあり(道を渡ろうとして車が来たから急に止まると、少しでも道が傾いていたら父が前に落ちそうになり悲鳴をあげるなど)、医療機関や介護療養施設で働かれる方々が、お忙しい中でもどれだけ注意を巡らせ働かれてるかも想像し、またまた頭が下がる思いにかられております。

日々勉強、その4文字ではおさまらないくらいの実体験からの勉強をさせてもらってます。

きっと子育て中でベビーカー押されてるかたも同じですよね。

目も見え、耳も聞こえ、自分で歩けるそんな人だけが暮らしているわけではないことをわかっていても想像しきれてなかったこと、こうやって少しずつでも学ばせてもらってること、父の存在にあらためて感謝です。(しかも遠慮せず、今のん怖かったぞとか注意してきますので)

 

シルバーウィークの報道を見ると、けっこうGO TOキャンペーンを利用されてるかたの多さを知ります。すっかり流行に乗り遅れた気分です。

友人はお父さんぬきで行ってきたら?とも言ってくれましたが、父ありきで考えていたので、今回は断念でいいかという思いになったものの、やっぱりなんか勿体ないのかなとも思ってしまいます。

こんな風に思えるくらいコロナと共存していきつつあるのも医療職の方々のご尽力あってこそ。

心から感謝です。

 

書かせていただくたび父の機嫌や物分りの良さ、悪さは波があるのを実感してます。なんで今は落ち着いてるんやろな、、それはきっと私達家族、親族、施設の方々の関わりの努力があってこそですが、

父の大好きなプロ野球や大相撲、マラソン選手権が行われ日々中継がテレビで観れたり、ラジオで聴けたり、新聞で読める幸せと、ご贔屓のプロ野球球団が、ちょっとだけ強いということも影響してるかと思います。

プロ野球が好きだと認知症予防になると以前聞いたこともあるので、プロ野球が毎年開催されるような平和が続くことを祈るばかりです。
(何を隠そう父の私服は、毎日うちの主人がプレゼントした、ご贔屓球団のユニフォームです。デイサービスでも、夜寝るときも、法事ですら。数着プレゼントしてくれてるので毎日着替えてます(笑)。)

 

今年も暑い夏でしたが秋になるのも早く、朝晩冷える日々が続いてますね。コロナ感染予防もしながら、インフルエンザがくる季節に向けての予防も始まります。

より一層、手洗い、うがいも徹底しすこしずつ緩和された外出制限や人の集まるところの制限とも付き合っていきたいですね♫

 

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遠隔介護ブログ(第31回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。
遠隔介護ブログ31回目です。

まだまだ残暑が続きますね。
コロナ禍の中で、春から、通勤はしているものの、日光を浴びるようなお出かけをなかなかしていなかったなかで、長い梅雨が終わると一気に熱くなったので、日々にコロナの新規感染者さんより熱中症で搬送された方の人数のほうが多いようなニュースを見て、今年の夏の厳しさを痛感しています。

私も毎年一回は熱中症で嘔吐したり、寝込んだりするのですが(だいたい夏の甲子園、高校野球観戦で熱中症になります)、今年は家の中にいて熱中症になりました。

昨年亡くなった祖父の初盆のため、実家の仏間の掃除をしていたのですが、実家の仏間とリビングのクーラーが壊れていて、まぁもう誰も住んでない空き家、月に2、3回、私達夫婦と叔父がのぞくだけの家なら、他の部屋のエアコンは壊れてないし、仏間とリビングのエアコンが壊れていたとしても、支障はないだろうと思っていたものの、実際どんどん身体の熱があがり、初盆のおまいりが始まる頃には頭はフラフラ。。

ただ、お寺さんへのお茶出しもしないとと、とりあえず、1時間あまり乗り切ったものの、実家からの帰り道の2時間弱、猛烈な吐き気に襲われ、家まであと5分位のところで嘔吐、、ちゃっかり熱中症になってました。。

 

父にも「クーラー直しといてくれ。」と懇願され、身を持って、年に数回とはいえ、この暑さは、私以上に来てくれる親戚たちにも迷惑かかると、エアコンを新調することを決意。

空き家問題、空き家とはいえ維持していくにも本当に考えること多く、世の中の空き家を抱える方々の維持方法をお聞きしたいなぁと思ってしまいます。

そして本当に年々暑さが、厳しくなりますね。。
総じて不快指数も上がる、と、うちの話題の主役、父もイライラマックスを私にぶつけてきたり、施設でもわがまま放題訴えたり、本当にプチトラブルはつきません。

あれも食べたいこれも食べたい。。リクエストだらけ。

もちろん、コロナ禍もあって遠出も出来ないし、独りで暮らしていたときに自分で食べたいもの食べてたので、施設の決まった献立の毎日にちょっと寂しさ、辛さがあるのもわかります。

なんとかすこしでもストレスレスにしてあげたいけど、父が部屋でおやつやアイス食べると片付けないので、アリさんやゴキブリさんの餌食になります。共同生活なので他の部屋のかたにも迷惑かけます。

部屋での勝手な飲食は健康のためにも極力避けてほしいとケアマネさんにも言われており実際、間食の材料をおかなくなってから、かなり父の健康状態はよくなり、身体のむくみもなくなり、自分の足で歩ける距離も少し長くなりました。

 

主治医が褒めてくれるから自分でも嬉しくやる気になり、デイサービスでも歩く練習を頑張ってるようですが、そうなると余計にお腹がすくし頑張ってるご褒美もほしい。

そして、スイカ、葡萄(このふたつは、家で作ってたり、近所で作ってるので、実家にいたころは余るくらい家にあったので)を食べたい食べたいと言い出したり、とにかくアイスが食べたい、焼豚が食べたい、そうめんが食べたい、食べたいものだらけ。

そこで、介護さんに、父が食べたいものを渡し、入居者さん、皆さんでわけてください、父には多めに入れてやってください、という方法で父の望みを叶えられるようにしてみました。

今のところ、責任者さんからもそれに対してやめてくださいとは言われないので(いつも恐縮されますが)、父のわがままストレスに施設さんも、私達も、ふりまわされて疲弊しないように最善ではなくても出来る限りの策だと思ってます。

 

祖父母は施設にいても最初は「帰りたい。」とは言ってたものの、毎日毎日、今の父のようにあれこれストレスをぶつけてくることはなかったので、他の施設に家族を入れてらっしゃる家族さんはどうされてるのかなぁ、どんなふうに入居の状況と向き合ってらっしゃるのかなと思います。

ほんとにこっちがストレスで心身がやられてしまいそうです。

それをかんがえると、施設で父たち入居者さんを支えてくださってる職員さんたちはもっともっと日々の大変さがおありだろうなぁと思います。

何十年も生きてきた、いろんな価値観をもつ人たちの集まる共同生活。

自分は、年老いた親の面倒も家でみてきたのに、自分が年老いたら、子供にみてもらえず施設にいる、というストレスがある利用者さんもおられるでしょう。

でも、施設の職員さんは、祖父母のところもそうでしたが、皆さん、私達家族を気遣ってくださいます。大げさではなく、皆さん天使のような優しいお心だと思います。

 

手のかからない利用者に、早く父がなりますように、早く模範的な利用者になりますようにと思いますが、、それは遠い道のりになりそうです。

そんな父ストレスに振り回される私のストレス発散法は一番は、映画鑑賞。
長くなりますので、全ての感想は書けませんが、この1ヶ月で観た5本の映画の写真。

①甲子園フィールド・オブ・ドリームス

②コンフィデンスマンJP

③ブリット=マリーの幸せなひとりだち

④アルプススタンドのはしの方

⑤ジョーンの秘密

 

全部、満足度満点以上。
すかっとします。コロナ禍でも万全の感染防止対策で楽しめる映画鑑賞。秋も楽しんでいきたいです。

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遠隔介護ブログ(第30回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

今年の梅雨は、なんだか本当に長く感じますし、雨の量も尋常ではないですよね。その上、新型コロナウイルスの新規感染者も増加傾向にあり、自分がどのように行動すべきなのか本当に考え考え、どれが正解なのかもわからないまま、気付いたらお盆が近付いているという、あっという間の令和2年の時の流れを痛感しています。

父がサ高住に入ってから実家は空き家です。
2週間に1回、私達夫婦が空気の入れ替えや断捨離に帰るのと、叔父が時々仏壇の世話に帰ってくれてます。案外頻繁に空気を入れ替えているように思いますが、先日帰省すると、、キッチンまわりや、リビングの机、椅子、床がものすごいカビ!

父が住んでるときには全く発生しなかったカビでした。
父は掃除が苦手でしたので、父が住んでるときは、私達夫婦が二週間に1回のキッチンまわりの掃除に2時間かかりました。その油汚れや日常のゴミ整理はなくなったもののこんなにカビが発生するなんて。。
という驚きで、必死に1時間掃除をしまくりました。

人が住まなくなると一気に家は衰える、というのを実感してます。

仏間のエアコンも壊れました。

雨漏りも3箇所。

田舎の家特有の造りのせいもあるかもしれませんが、「空気を入れ替える」ことの大切さ、こういうことなんだなぁと改めて勉強になります。

家は生きてます、家も生きてます。

 

父がサ高住に入れば、自分たちが帰省しても自由時間が増えると思ってた私達ですが、なんのなんの、自由時間、、少なくなってます。

まず父を施設に迎えに行き、日頃は自分の食べたいものを食べれてるわけではないので(サ高住でもデイサービスでもおやつやご飯を出していただいて、上げ膳据え膳で生きさせてもらってますが、なんせ今までが好き放題の暮らしでしたので)、私達と会うときくらいは食べたいリクエストを叶えてあげたいと思い、外に連れ出してランチ、そこから共に買い物、そして、サ高住に連れて帰り、買い物したものの整理、そこから実家に帰り、空気を入れ替えし掃除に断捨離。

そして、祖母の施設にも行ったり、なんだかんだ用事してるとすぐに夜。

自分が、帰省して行きたいところややりたいことは全く出来ないそんな状況ですが、時間があったとしてももちろん、コロナ禍で地元の友人たちに会えるわけでもないので、これが今の自分の使命、父や祖母に会えないコロナ禍の規制ではないだけでも、ありがたいと思おうと感じられます。

写真は、子供用のキッチンばさみ。

今回100円均一で購入。何に使うかと言えば、父が外で食べる時に、食べやすいように切るその名のとおりのキッチンばさみです。

父は子供の頃から身体が弱く、体育の授業もすべて見学。運動会にも1回も出たことがなく、50歳まで命が持たないと言われていた状態。

その中で、影響があったのが歯でした。

私が成人式くらいにはもう総入れ歯になってたと思います。

よく大工さんが出来てたなぁ、棟梁として大きな家いっぱい建てながら、50歳までの命って言われてたなら、ほんとに太く短くと考え、目一杯働いてたんだろうなぁ。だから、歯も食いしばり過ぎてこんなことになったんかなと、今の私は思いますが、若くしての総入れ歯は本当にかわいそうでした。

特にやはり、入れ歯で食べると食べ物が美味しくないようで、歯をはずして、歯茎で食べるほうが、何倍もその食べ物の本来の美味しさを感じられるので入れ歯は持ち歩くものの、はずして食べることが多いのです。

そのときに、ナイフとフォークを借りたり、キッチンバサミをお店に借りたりしてましたが、それも申し訳なくなり、子供用なら蓋もついてるのでそれを購入。
元大工だけあって、ハサミの使い方はかなり巧妙なので役立つこと間違いなしなのです。

ほかにも父と食事にいくときは、食べこぼし用の私の手作り前掛けと、口や手拭き用のウェットティッシュ(これも、お店におしぼり追加もらってましたが、すごい量になるので)を持参します。

もちろん尿もれ用の紙パットも必需品です。

よく、子育て中のママさんが大量の荷物でお出かけされてるのを見ますが、それと同じ状況。

以前、子育て経験された先輩主婦さんが、子育てって、もう一回、自分が子供からやり直したくらいの勉強量があるって言われてて、私は子育てをしてないのでその勉強量がない人生なんだなぁて思ったりもしましたが、、

祖父母や父のおかげで、もちろん子育てには到底及ばないと思いますが、かなり人生勉強はさせてもらってると思います。

 

毎日様々な看護師さんとお話をさせていただくのが私の仕事。

仕事をされながら、子育てや介護、妊活をされてるかたがたくさんおられます。

またそういった状況のため、一旦、仕事を休み、そろそろ落ち着いたので仕事を復活し、両立させたいというかたもたくさんおられます。

私自身、妊活もしました。

アノ頃はまだ、東尾理子さんが「妊活」という前向きな言葉を出される前だったので、まさしく「不妊治療」。

5年ほどはそれなりにやりました。その当時はまだ前職で営業をしていたので、お休みを都度いただいたり、営業活動中に少し抜けさせていただいたりしながら。

少しずつ自分の身体の妊娠しにくいという持病なども発覚し、自分の年齢、主人の年齢、私の母が死去し私側の実家には頼れないこと、主人側家族の、私達夫婦に子供がいなくても気に留めない優しさなども考え、子供は諦め、夫婦二人で人生を楽しむことにしました。

その経験はいま、妊活中で仕事との両立に悩んでおられる方と話させていただくときに活かせている気がしてます。もちろんじゅうぶんではないと思いますが。

先日は、お仕事相談で来社くださった看護師さんでご両親の介護を家でされていたかたに、私の奮闘や悩みを聞いていただき「神様は見ててくれてるから大丈夫!」と、逆に励ましていただきました。

もちろん妊活、子育て、介護、それだけではなく、いろんな人生での積み重ねが、なにかしら自分の公私で活かせることは多いと思います。

体験しなくても友人の相談、読書、映画やメディアからの情報などで学べることもありますが、体験することでの勉強量はとてつもなく大きいです。

 

父は前向きなので、「お父さんの身体が、こうなったからこそまわりの人間が学ぶことは大きい。」と、人に世話をかけておいて笑顔でいってきますが、「こんなになってもてごめんな。」と、日々謝られるよりは、笑えますし、「まだまわりのおじいさんらより若いんやからしっかりしてや。」と、言い返すことも出来るので、憎たらしいことがほとんどであるものの、あの前向きさや自分への甘さがゆえに、こちらの心が癒やされることも多いのだと思います。

いま、コロナ禍で経験しているあらゆる不自由さも、いつかきっと人生で生きてくると思い逞しく前を向いていかねばと思います。

 

今日も長くなりました。

前回、けっこう悲惨な父とのやりとりを書かせてもらいましたが、私が命をおびやかすような病気なのでとあまりつきたくはない嘘をつき、父にも、もう少し、私に負担かけないようにおねがいしたいと話してから、けっこう穏やかに過ごしてくれてる父ですが、どう頭が転換したのか、「めぐみちゃん、妊娠してるんやでたぶん。」と、言ってきました。

そう思うならそれでもう、私は父が穏やかに、サ高住のスタッフさんやまわりの住人さんに迷惑かけず過ごしてくれたらそれだけでいいと思うようにしました。

本来だったらオリンピック、パラリンピックがいよいよというこの7月。

来年には「やっと観れる!」と思えるように。

通常の世の中に、そして、より良い意味でのwithコロナになる日が早く来ますように。

 

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