【第2章】5節 私の看護婦人生:希望のスタート

私は、一応順当に看護学校を卒業。国家試験も無事合格して、社会人看護婦1年目を初々しく歩み始めました。その辺りの詳細は、もう忘却の彼方に飛び去り、定かでない事が多いのですが…。そこはお話ししておくのも良いかと思っております。

当時、私が入学した看護学院は、病院付属の高等看護学院であり、入学生の学費・寮費の経費は、3年間、病院から奨学金として支給され、学生は全員寮生活をする事が義務付けられていました。奨学金の返済は、卒業後3年間は母体病院で働く、という条件が義務化されていて、理由あって3年内に退職するときは、残費清算して返済することになっていました。そして最も大事なことは、「保健婦・助産婦・看護婦国家試験」に合格することが最大の命題でした。看護師国家試験の実施日程は、基本的には2月の第2日曜日(看護学校卒業直前)で、私達の卒業式は3月でしたから、卒業仮認定申請して受験に臨みました。

3年生は、国家試験と卒業を控え、新年早々から落ち着かない緊張感の中で過していました。教務の先生方からは、「当看護学院は、開校以来、不合格者は出していません。合格するのは当然で不合格はありえない。」と、ことあるごとに力強い励まし?の発破をかけられ、私達もまた「ご心配いただきありがとうございます。合格できるよう頑張ります。」と力強く応答してみるものの、頭の中は、実感の持ちようが無く、奇妙な感じでした。国家試験を合格しなければ、看護婦としての旅立ちは出来ない。前に進むしかないわけで…とならば、ここは国試勉強に必死で取り組まざるを得ない とばかりに、誰に助けを求めることもなく、自分自身との闘いでした。私自身、失敗に対しての覚悟を持ち合わせた強い意志がほしいのですが、問答は空回りして思考が集中しないから、案外安直な構えだったように思います。

国試合否の発表は、4月入社後の6月。幸いなるかな全員合格の報を受け、ほ~っと腑抜けていくように緊張感が解けていったように思います。合格の報を受けて、その夜は仕事を終えると、5回生6名は、足取り軽く身も軽く「お祝い会」に出かけ、思いっきり弾け、喜びお祝いの乾杯をし、労いあいました。
やっぱり苦しかったよね!よく頑張ったね!3年間を無事過ごしてこれたよね!乾杯!!

私達の学年は一つの強固な意志特性(12名それぞれが、個性的な意見・見解を持っている)があり、何かある度に賑やかな議論舌戦を展開する5回生でした。強固な5回生ではありましたが、出尽くした議論がそれ以上に進展せず、良き知恵に集約されないと解ると、あっさり多数決か合意的妥協で決定し、恨み言なし。そこはホントにさっぱり終りにするという良質な特性を持っていたと思いますし、可笑しな笑える5回生でした。

卒業は12名全員ができる事になり、3月中旬に行われる卒業式の当日は、糊の効いた白衣に身を包み、髪の毛は乱れぬようしっかりピン止めし、ほどほどに頬紅をさして爽やかな溌剌とした若人仕上げに。胸元には紫のカトレアの花を飾り付けた卒業生12名は、両親や親族、看護学校の先生方、院長兼学院長と病院の主要な方々、下級生一同の皆様に見守られ式事を終えるのですが、在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞に至れば、号泣に近い嗚咽がクライマックスな高揚感に。これはもう、止めようのない泣きのシンドローム状態で、その乙女チックさを思い出せば、ちょっと照れくさい話です。

ところで、5回生12名の卒後進路についてはひと波乱ありました。私達5回生は、入学時から欠員状態の上、途中退学者を出して12名という最少人数で学んできました。12名グループというのは、コミュニケーションの距離は取りやすく、口論になっても一晩寝れば鞘に収まっている。良く言えば、その結束力は如何なく発揮してきましたし悪く言えば、ごね得とも言われた5回生です。ところが当に、良くも悪しくもなのですが、生涯忘れ得ぬ「卒業間際のひと波乱な深刻事態」を引き起こしてしまったのです。

卒業後の就職は、全員が付属する病院に就職するのが従来の鉄則(基本的な契約?)で他施設に就職するなどということはありえない事でした。
しかし12名中5名は、外部の病院・福祉施設に就職を決め、1名は就職せず結婚を決めていたのです。当然、病院側からの強い慰留の説得が数日間続けられ、次第に叱責に至り感情的な対立となりました。私達学生側の契約上の遵守責任も然ることながら、教務の先生方にとっては、仰天の職務上の責任問題で、病院側からの厳しい追求があったはずです。どんな説得工作に於いても6名は、説得に応じず強固な意志貫徹を持って突破しようとしていました。

私達12名は、仲間だけを見つめ、守り合うという意気込みではあって、それしか見るべき方向が見えなかった(見ようとしなかった)という事かもしれません。残留する6名は6名で、彼女たち外部に所属しようと決め込んでいる仲間の決意の頑強さに、説得する意思は持ちえず(むしろ説得しようとは思わなかったと思われる)交渉中の病院側に対して、「私達6名が残ってこの病院のために、頑張っていきますので、6名の仲間の意志を尊重して認めてください。」などと、ありえない主張を繰り返したのです。

ついには認めていただくことになりました。が、しかし、残留する私達6名の主張が「認められた」という甘い汁の回答を頂けたとは思いませんでした。実際、この問題については、対立の過程では、学籍抹消に値するくらいの病院側の強い怒りを私達に向けられ、「何故そうしたことが解らないのか?これから社会人として厳しい社会の中で生きていかなければならない事を解っているのか?医療人として看護婦として、人の命と向き合っていくということはどれだけ大変で、責任の大きい仕事か解っているのか?」と。まさしく親が子に生きる術を必死で教え覚え諭すように…何故それが解らないのか?そんな必死な説得であったかと思われ、これからこの病院で働いていく6名は、「自分たちは病院に残って勤めていこう。」「病院には大変な迷惑をかけた。私達が、このような事を引き起こさないように事前の策を取らずに、密かに突入させてしまった。しかしこれまでの順調な流れを受け継ぐだけではなく、ある意味で別の道を選んで行ける自由もあっていいではないか?」などなど、結論の出せぬ出せない思いを肝に銘じて、決して忘れないで働こう。私達がこれからしっかり頑張っていくことで、5回生の罪・恥にならないよう頑張っていこう!」と誓いあい、病院に留まることになりました。

~それにしてもエライ事をしてしまいました~。

この病院に残留の6名は、2年間ほど、看護部上司たちの目線の冷たさに耐えて働くことになりましたが、そのうちに重宝していただけるようになりました。全員が5年間は働き、その後は、結婚やら、故郷に戻るなどしましたが、永く勤めた3名は、看護部のリーダー的な役割を担い基礎看護教育の分野でも活躍してきましたが、今は昔の物語。

たまにこうして想い出してみれば、あの頃の青春時代、青臭く残るあれこれの思い出が、とめどなく噴出してきます。しばし立ち止まって、あの時あの人あの時代に思いを寄せてみれば、また苦楽の思いが、蘇ってくるでしょう。それは私の人生の希望の歩みとして…。

仕事をしていれば、時に人間的な感情を縛る時があり、そんな風に自分の感情を抑制していくうちに心が重くなっている。そんな時にこそ、多くの人との交流は、案外、自分本位な心を溶かしてくれるものだと感じてきました。耳を澄ませば、昔の仲間の声が聞こえ、はっと気が付けば現実の声を聞くという、そんな交錯を通しながら、人間同士の交流の信号を読み取り、心が穏やかに和んでいくのを感じるこの頃です。

 

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ノンちゃん

投稿者: ノンちゃん

大阪・住友病院で教育担当副部長を経まして、系列看護学校の副学長を歴任。その後、活躍の場を松下記念病院に移し、看護部長として就任いたしました。現在はワークステーションで登録スタッフの方の相談役として、様々なアドバイスを行なっております。長年の臨床経験・指導経験を元に得た知識を、皆さんにお伝えできればと思います。