【第2章】5節 私の看護婦人生:希望のスタート

私は、一応順当に看護学校を卒業。国家試験も無事合格して、社会人看護婦1年目を初々しく歩み始めました。その辺りの詳細は、もう忘却の彼方に飛び去り、定かでない事が多いのですが…。そこはお話ししておくのも良いかと思っております。

当時、私が入学した看護学院は、病院付属の高等看護学院であり、入学生の学費・寮費の経費は、3年間、病院から奨学金として支給され、学生は全員寮生活をする事が義務付けられていました。奨学金の返済は、卒業後3年間は母体病院で働く、という条件が義務化されていて、理由あって3年内に退職するときは、残費清算して返済することになっていました。そして最も大事なことは、「保健婦・助産婦・看護婦国家試験」に合格することが最大の命題でした。看護師国家試験の実施日程は、基本的には2月の第2日曜日(看護学校卒業直前)で、私達の卒業式は3月でしたから、卒業仮認定申請して受験に臨みました。

3年生は、国家試験と卒業を控え、新年早々から落ち着かない緊張感の中で過していました。教務の先生方からは、「当看護学院は、開校以来、不合格者は出していません。合格するのは当然で不合格はありえない。」と、ことあるごとに力強い励まし?の発破をかけられ、私達もまた「ご心配いただきありがとうございます。合格できるよう頑張ります。」と力強く応答してみるものの、頭の中は、実感の持ちようが無く、奇妙な感じでした。国家試験を合格しなければ、看護婦としての旅立ちは出来ない。前に進むしかないわけで…とならば、ここは国試勉強に必死で取り組まざるを得ない とばかりに、誰に助けを求めることもなく、自分自身との闘いでした。私自身、失敗に対しての覚悟を持ち合わせた強い意志がほしいのですが、問答は空回りして思考が集中しないから、案外安直な構えだったように思います。

国試合否の発表は、4月入社後の6月。幸いなるかな全員合格の報を受け、ほ~っと腑抜けていくように緊張感が解けていったように思います。合格の報を受けて、その夜は仕事を終えると、5回生6名は、足取り軽く身も軽く「お祝い会」に出かけ、思いっきり弾け、喜びお祝いの乾杯をし、労いあいました。
やっぱり苦しかったよね!よく頑張ったね!3年間を無事過ごしてこれたよね!乾杯!!

私達の学年は一つの強固な意志特性(12名それぞれが、個性的な意見・見解を持っている)があり、何かある度に賑やかな議論舌戦を展開する5回生でした。強固な5回生ではありましたが、出尽くした議論がそれ以上に進展せず、良き知恵に集約されないと解ると、あっさり多数決か合意的妥協で決定し、恨み言なし。そこはホントにさっぱり終りにするという良質な特性を持っていたと思いますし、可笑しな笑える5回生でした。

卒業は12名全員ができる事になり、3月中旬に行われる卒業式の当日は、糊の効いた白衣に身を包み、髪の毛は乱れぬようしっかりピン止めし、ほどほどに頬紅をさして爽やかな溌剌とした若人仕上げに。胸元には紫のカトレアの花を飾り付けた卒業生12名は、両親や親族、看護学校の先生方、院長兼学院長と病院の主要な方々、下級生一同の皆様に見守られ式事を終えるのですが、在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞に至れば、号泣に近い嗚咽がクライマックスな高揚感に。これはもう、止めようのない泣きのシンドローム状態で、その乙女チックさを思い出せば、ちょっと照れくさい話です。

ところで、5回生12名の卒後進路についてはひと波乱ありました。私達5回生は、入学時から欠員状態の上、途中退学者を出して12名という最少人数で学んできました。12名グループというのは、コミュニケーションの距離は取りやすく、口論になっても一晩寝れば鞘に収まっている。良く言えば、その結束力は如何なく発揮してきましたし悪く言えば、ごね得とも言われた5回生です。ところが当に、良くも悪しくもなのですが、生涯忘れ得ぬ「卒業間際のひと波乱な深刻事態」を引き起こしてしまったのです。

卒業後の就職は、全員が付属する病院に就職するのが従来の鉄則(基本的な契約?)で他施設に就職するなどということはありえない事でした。
しかし12名中5名は、外部の病院・福祉施設に就職を決め、1名は就職せず結婚を決めていたのです。当然、病院側からの強い慰留の説得が数日間続けられ、次第に叱責に至り感情的な対立となりました。私達学生側の契約上の遵守責任も然ることながら、教務の先生方にとっては、仰天の職務上の責任問題で、病院側からの厳しい追求があったはずです。どんな説得工作に於いても6名は、説得に応じず強固な意志貫徹を持って突破しようとしていました。

私達12名は、仲間だけを見つめ、守り合うという意気込みではあって、それしか見るべき方向が見えなかった(見ようとしなかった)という事かもしれません。残留する6名は6名で、彼女たち外部に所属しようと決め込んでいる仲間の決意の頑強さに、説得する意思は持ちえず(むしろ説得しようとは思わなかったと思われる)交渉中の病院側に対して、「私達6名が残ってこの病院のために、頑張っていきますので、6名の仲間の意志を尊重して認めてください。」などと、ありえない主張を繰り返したのです。

ついには認めていただくことになりました。が、しかし、残留する私達6名の主張が「認められた」という甘い汁の回答を頂けたとは思いませんでした。実際、この問題については、対立の過程では、学籍抹消に値するくらいの病院側の強い怒りを私達に向けられ、「何故そうしたことが解らないのか?これから社会人として厳しい社会の中で生きていかなければならない事を解っているのか?医療人として看護婦として、人の命と向き合っていくということはどれだけ大変で、責任の大きい仕事か解っているのか?」と。まさしく親が子に生きる術を必死で教え覚え諭すように…何故それが解らないのか?そんな必死な説得であったかと思われ、これからこの病院で働いていく6名は、「自分たちは病院に残って勤めていこう。」「病院には大変な迷惑をかけた。私達が、このような事を引き起こさないように事前の策を取らずに、密かに突入させてしまった。しかしこれまでの順調な流れを受け継ぐだけではなく、ある意味で別の道を選んで行ける自由もあっていいではないか?」などなど、結論の出せぬ出せない思いを肝に銘じて、決して忘れないで働こう。私達がこれからしっかり頑張っていくことで、5回生の罪・恥にならないよう頑張っていこう!」と誓いあい、病院に留まることになりました。

~それにしてもエライ事をしてしまいました~。

この病院に残留の6名は、2年間ほど、看護部上司たちの目線の冷たさに耐えて働くことになりましたが、そのうちに重宝していただけるようになりました。全員が5年間は働き、その後は、結婚やら、故郷に戻るなどしましたが、永く勤めた3名は、看護部のリーダー的な役割を担い基礎看護教育の分野でも活躍してきましたが、今は昔の物語。

たまにこうして想い出してみれば、あの頃の青春時代、青臭く残るあれこれの思い出が、とめどなく噴出してきます。しばし立ち止まって、あの時あの人あの時代に思いを寄せてみれば、また苦楽の思いが、蘇ってくるでしょう。それは私の人生の希望の歩みとして…。

仕事をしていれば、時に人間的な感情を縛る時があり、そんな風に自分の感情を抑制していくうちに心が重くなっている。そんな時にこそ、多くの人との交流は、案外、自分本位な心を溶かしてくれるものだと感じてきました。耳を澄ませば、昔の仲間の声が聞こえ、はっと気が付けば現実の声を聞くという、そんな交錯を通しながら、人間同士の交流の信号を読み取り、心が穏やかに和んでいくのを感じるこの頃です。

 

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【第2章】4節 学業と寮生活と歌声の響(共鳴)

現状の看護師養成教育課程からは考えられ様もないが、その頃の看護婦(師)養成教育は、「学業と寮生活」が統合された形で教育展開されており、それはそういう一時代を経て、発展的な近代教育の今がある としか言いようがない。

寮生活の中にあって目覚めて始まる一日は、ピ~ンと張りつめた一環性の中に、計画的に規則正しく流れて行く。先輩の注視する、声、言葉、目線、仕草が、何かにつけ支配的であり(そのように思われ)、自由な雰囲気を得ることはなかったのではないかと思っている。

一般の大学生、短大生の教育課程とは異なり、教育カリキュラムは、医学・看護学分野の専門領域の教育課程が、ぎっしり詰まっていて、毎日の学びの忙しさは、結構ストレスフルであったけれど、深い学びの過程をたどるほどに、看護への興味は増してきました。

その変化の感じ方は、看護教育の力であると認識することはできました。私の場合、1年生後半になって、健康回復のきざしが出はじめ、クラスメイトたちとの呼吸がかみ合うようにもなって、大きな声で議論し合い、笑いあえるようになってきましたから、大きな進歩・成長ができたといえます。

今まで何かしら、このまま代わり映えしない閉鎖的な環境で3年間を過ごさないといけないのだろうか?こんな疑念に支配されていたようで、私は、世間に乗り遅れていくのではないかと体が強張っていましたね。パッと弾けるような解放感を渇望していました。

私の学年は、総勢12名。エネルギーとしての見た目は力不足の状態です。幸いなるかな!12名というのは、非常にコミュニケーションが取りやすい利点有りなわけです。良くも悪しくも12名は、学業は素直に学び、寮生活では、先輩の凝視点検の難儀を感じていたけれど、そこは結束力でサラッと受け流すという技を身に付け、3年を終えるまでは、ひたすら看護学校卒業⇒看護師国家試験合格に邁進するのみ。それを目標として頑張ってきたと言えるかな!?

大学・短大・専門学校の違いを知り尽くしながら、12名の仲間は、有耶無耶感をすっきりと再生させるべく自己表現を表出しあい、共有を図っていけたのではないかと思います。 謂わば私達、不揃いのリンゴ娘たちは、其々の個性を持って自分の立ち位置を自覚して共同、協同、協働を成し得ていけたのでは?と思います。さて2年生の後半に入った頃のこと、私は良き情報を耳にすることができました。1学年下の看護学生でピアノを弾ける学生がいると知り、何かピッと来るものがありました。さてどうしたものか…?!

彼女とは、寮舎内で会えば普通に話もし笑いあうという親しさもあったので、ある日、私は「指揮棒を振ったことは無いにしても、中学・高校では合唱部で練習を重ねてきた経験があり、その経験を頼りに期間限定で合唱部を作ってみたい。あなたが、ピアノを弾けると聞き、合唱部を結成できないだろうか?」と尋ねたところ、「良いですねえ。簡単な曲ならば弾けると思います。」との反応を得て、思い当たる3曲ほどを提案したところ、「ちょっと弾いてみて、弾けそうなら直ぐ返事します。」と。その後日、「トライしてみましょう!」との良き返事を受け、あれよあれよという間に、準備が整い、1年生、2年生を募集したところ、20名は集まりました。合唱部結成の喜びは大きく、不安ながらも挑戦してみることになりました。

計画の詳細は、練習曲3曲(モルダウの流れ、ゆりかご、夏の思い出)、練習期間は1年2か月(再来年3月までの18か月間)、この間、春休み・夏休み・冬休みを除けば約15か月弱、練習日程は毎朝7時15分~8時、目標は「3年生の卒業祝賀会で練習成果を披露してお祝いする」。こうして20名の賛同者を得て、期間限定の合唱部が発足できました。えらいこっちゃ!!です。

発声練習、パート別練習、全パート合わせ を組み合わせた練習を実施しましたが、やはり朝練は、実習前の時間利用という事ですから、学生にとっては少々厳しかろう?続くだろうか?との思いは杞憂に過ぎず、予想外な反応が得られたのです。

「朝の練習を終えて、実習場に行くのは気持ちよく、身体もすっきりする。」との好反応。毎朝10~15名は参加するという状況で、合唱曲の選定にも好感を持ってくださり、1年2か月間で3曲を仕上げることができたのです。その間、大きなトラブルには至らず練習は続行されたという事です。早朝の発声は、本当に気持ちよく美しく響くものです。学校にはピアノは無く、病院の講堂にありましたから、その広い場所をお借りして練習ができたのですから、ラッキーというよりほかなく、ありがたかったです。一部の患者様や、病院職員の方々から、「毎朝きれいな歌声が聞こえてきて、気持ちいいわ。上手に歌っているわね。」との感想を頂き、嬉しかったし、励みにもなりました。

そして3月中旬、3学年一同で開催するイベント「卒業生を送る祝賀会」に於いて、練習してきた合唱曲2曲を披露する時が来て、病院院長兼看護学院長、事務長、総婦長(現看護部長)、婦長(現師長)さん方と、3学年の看護学生が共に会合する場に於いて、私達合唱部員18名(だったかな?)は、晴れやかに、美しく、歌い切りました。

この経験は、「感動した」物語ではなく、看護学生の3年間の中で、看護学生の寮生活の窮屈さに閉塞感を持ち、如何に逃れようとしていたのか?単なる反発行動に陥ることなく、教務の先生方や病院の経営にあたる院長、事務長、看護部長の方々と、敵対ではないながら、しかし親しみからの距離感で交流が交わされる意識などありえず、むしろ遠い存在であったと思われるが、そんな面倒な意識解析はどうでもよく、垣根は解けて、グンと近づけていたのです。

凄い拍手喝さいを頂いたのは言うまでもありません。
アンコールの声もいただきました。あぁ~!気持ちよかった~!

私達の達成感・満足感は最高でした。その時の感激・感動が今も蘇ってきます。

 

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【第2章】3節 看護学生の反抗?それとも穢(けが)れなき悪戯?

私達5回生は、2年時の後半までに2名、2年目の前半に2名、計4名の自主退学者を出し、5回生は12名という極めて少人数のクラスになりました。

看護婦への“begin”は、ようやく5回生としての、安定を得て進み始めました。想像だにつかなかった看護学生生活は、当然、初期混乱を巻き起こし「自分の道はこの分野では無かった、このような学び方を3年間続ける意味がない。」などと御託を並べ、悩みを打ち明け合う日々を過ごし、共感・共有の流れのままに、意志結集力はゆるぎない力となっていったようです。(然しまぁ…12名とは淋しいものでございました…!? )

意思疎通良し!風通し良し!正義感の迫力良し!実直で真面目!夫々の個性がはっきりしていて意志強固、誰彼区別なく級友の為なら、何としてでも、友を守るという熱血女子隊に成長。お人好しで世話好きな分、ガサガサしていたようでもあるが、女性のしなやかさ、若気の恥じらいはありました。

文学好きな学生が多く、皆が本をよく読んでいて、センチな詩や文章を諳(そら)んじたり、物思いにふける乙女チックな自己表現をする役者ぶりも発揮するなど、最初のうちは、そんな自己表現に違和感ありながら、皆が慣れてくれば楽しみあうなど5回生は、可愛く弾くような素直感のある学生として成長していきました。

看護教育とは一体どのようなものなのか?どのように学んでいけばよいのか?と考えるには、まだ看護教育全体の可視化は万全ではなく、大まかには、1年目は「看護の基礎教育を終えて戴帽式を終えると基礎実習に入る。その間に前期テスト、後期テストを経て、進級が決定する」という説明があり、促されるままに取り組んでいました。先生方は、全員が進級していくために、精いっぱいの説明と檄を放ってくれたようですが、入学したばかりの私達にすれば、皆未知の世界の他人事気分で受け止めていたように思います。

現在のように、情報が豊かに入ってくることはなく、見よう見まねの最初の一歩から、どのように踏み出せば良いのか、どのような仕組・段階を通っていけば良いのか…?今までとは異なる教育内容に対して、チェンジする手がかりも解らず、導かれるままに従っていたように思う。

ほどなく疑問符が生じまくり、興味度を高めるには、抑揚のない講義が多く面白くない。ひたすらにとりあえず暗記だけしておけば…。及第点をとるために頑張ろう!という意気込みで支え合ってたのかな?

「とにかく卒業までは、私達何も解らないままに従うしかないね。それで頑張って国家試験を絶対パスしていこうね。」

健気なまでに学生たちは、腑に落ちない机上の勉強をクリアーして、いよいよ医療現場の臨床実習へ。計画的な流れに乗って実習に出て半年ほども経てば、実習の現状に、批判的な見解(実習は学びの場ではなく労働の一部として捉える)など無知なる青臭い主観を持って、励まし合ってきました。これが5回生12名のグループ力だったと思っています。

 

私達5回生は、わずか12名の小集団ながら、結束力が強固にありましたから、教務や病院側と改善に向けての話し合いを何度も重ね、3年時の修学旅行(研修旅行とも名付けられていました)が、従来より東北地方と決まっていましたが、私達は、北海道旅を希望し、その実現に向け交渉を重ねた結果、北海道は認められず、東北旅行を実施すると。ならば、私達は修学旅行は致しません。との返答で再び交渉となり、更なる旅行の意味づけ、日数の短縮を交渉の材料にして、列車・船旅・ユースホステル泊の組み合わせによる4泊5日の北海道修学旅行を認めていただくことになりました。

それは「ごね得」ではなく「話し合いによるコンセンサス」の形成であったと思っていて、私達も単に我を押し出すのではなく、どのような説得性を持って交渉するのかという貴重な体験をさせていただいたと感謝でした。

後々の看護学校の授業に、ディベート(テーマに対して対峙する2組が観客を説得するために論理的に議論する)学習が取り入れられるようになりましたが、私は、今でも、ディベート体験学習より、コンセンサス(論理的合意)の形成学習体験が、大事であると思っています。

そんなことを論理的な思考をもっていたのではないけれど、どうしても、学生の身分にある看護学生の日常が、寮生活の中に詰め込まれているようで、自由を感じなかったのは事実でした。看護学生ではなく看護労働者としての学生ではないか?という不満感から解放されることなく過ごしていましたから、世の中から取り残されていくようで、学生としての肯定感が形成されずにいたのでは無いか?と。何かしら遮断された不自由感に成すすべもなく…。

看護学生時代に、何を学び、体験学習を重ねていくのか、創造する力をどのようにして養っていけばいいのか…と、ノンちゃんはつぶやくのです。

 

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【第2章】2節 看護学生時代 ~あぁ!是が青春を渡る河なのか!?~

18歳の娘が、南紀の町から大阪の都会に移り来て、看護学生寮(当時は看護短大以外はほとんど全て、寮生活が教育の一環として組み込まれていた)の一室にわが身を置いてしみじみと眺めてみた。土佐堀川に面して建っている横に長細いビルは、1階2階が看護学校、3階4階が学生寮となっており、寮は和室仕立ての4人部屋で、清潔感がありこじんまりと整っている。各人に、洋服ダンス風ロッカー、座り机、ベッドが、効率良くセッティングされていて、5年前に建てられたものだ。トイレ、洗面所と簡単な炊事場は共同で、此処も清潔に整えられていて気持ち良い。3学年60人の共同使用に手狭感、不備感なく、これからの3年間の学生生活の環境が整えられているのを感じ、気持ち新たに出発することになりました。

これからの3年間、待ち受けている試練は、「花も嵐も」。全く想像・想定するすべもなく、むしろ甘い期待に胸弾んでいました。

初めての寮生活。女子ばかりの看護学生生活。友としての密着度は、今まで経験したことの無い密室・密接至極。半年間は新人2名+上級生2名の4名構成で、その間、先輩から生活の基本や礼節に関する私達への伝授は厳しく、教務の先生方はじめ、まもなく出会うことが多くなるであろう病院職員の方々、学生間の先輩・後輩のわきまえなど、基本的で秩序ある関係性について伝授されました。

当時は新鮮な感覚で、熱心に聴いていましたが、生活が慣れて看護学生・寮生活への馴染が増すにつれ、自立性が確立してくる頃、今度はこの新世界の窮屈さに多少の不満を持ち始めましたが、やがて半年が過ぎて、同級生同士4人の同室になってからは、夜になると皆で学生生活論を交し溜飲を下げては、逸脱することのなきよう平静さを取り戻し、明日への再生に思い至らせ、平穏な眠りについていたものです。

看護学生としての寮生活はこのようにして、大きな問題もなく1年が過ぎ~2年目を迎え新入生を歓迎し、1年先輩・2年先輩となって3年間を過ごしたわけです。

後々になって、看護婦として社会人を歩み出してからは気づいたことですが、看護学生時代の先輩から伝授される社会生活の基本、同級生同士が培う人間関係力、3学年共々の一体感を共有し、人其々の多様性を認知し受け入れる許容性、生命力の礎になっていたのだと気づき、「同じ釜の飯を食って育つ」という経験は、無駄なプロセスではなかったと、悟りを得ました。

 

私は入学以来、生活の変化が大き過ぎたのであろうか、5月頃から体調に変化が及びはじめ、54~56㎏あった体重が7月には50㎏、女性の生理上の影響も出始め、月の徴は不定さが続くようになっていた。顔色は青白くなり、身体は痩せ、顔の生気が無くなる状態は12月頃まで続き48㎏に。その間、8月の夏休み帰省時には、教務主任の先生から「夏休み中、親御さんとこれからの進退について話し合ってきなさい」との厳しい指導がありました。これには、かなり反発を覚え、帰省しても母に伝えることなく学校に戻ってきましたが、教務主任には、学業を続行していく旨を伝え、決して快くは無い了解を頂き、「退学のすすめ」の受難をクリアしました。ですが、実は当時の私は、随分体調が不安定で、不慣れな学生生活のストレスによるものと自覚していました。

看護婦を目指して進学したのは私自身以外の何者でもなく、後ろ向きになりそうな自分に対して、誰も助けてくれる人はいない。母の長き闘病の苦しみに何も応えられなかった私の無力さが、看護婦への道を歩ませたのだから、これは頑張るしかない。その思いだけで、心のざわつきを抑制していたかな?

男女共学の小・中・高の学校生活から、女子ばかりの寮生活への変化は、相当なストレスでした。何しろ教科書は、医学書・看護学書に準じた基礎看護学諸々であり、私の考え及ばぬ世界に迷い込んだようで、学びの面白さを知るどころか、学び方が解らなかった。どのように気力を持ちあげて学んでいけば良いのか…?!と。

今でこそ「カルチャーショック」という言葉は、普通に取りざたされていますが、考えてみれば、当時の私は、異文化に接した時に受ける精神的な衝撃を受けたわけです。今まで習得してきた知識と現実の習得する情報の乖離が、まさしく大きくありましたし、新しき友達は、戸惑うことなく授業を受け、寮に帰っては復習を難なくこなしているように見受けられ、気後れする自分をひた隠して陽気を繕っていた私でした。

ですから、勉強は寮で皆と共にではなく、学校の図書室で調べるでもなく、ひたすら、古めかしくも重みあるレンガ調の中之島中央図書館に通い、本の開き方、本の選び方等に関して、小さな声で図書館の方に教えて頂きながら、我が教科書の部分を捉えて、ノートに記述することを繰り返しながら、如何にも勉強した気分になって寮に帰ってくるという繰り返しを続け、果てしなき無駄骨を折っていた姿が、涙ぐましく哀れに思い出されてきます。

しかし、この事態は、私の学生生活3年間を継続する底支えになっていたと思うのです。

馬鹿らしい遠回りの学習の仕方ではありましたが、やがて「今、何を教わり何が解らないのか?」同期生皆との交流の仕方が定まるようになってきて、2年生の夏休み以降は、私なりの歩み方が気負いなく是正され始めてきました。

当時の看護学生の教育カリキュラムは、実習時間が大幅に多く、私達は「学生とは名ばかり。半学生・半労働者じゃないの!」文句の極みを正義感で持って、諤々述べ合っていました。教務の先生方に説明を求めたりもしましたが、今思えば、教務の先生方は、学生に言われるまでもなく、基礎看護教育上の問題点を痛く自覚しながら、私達を教育されていたのですが…。

学生ってのは、ホントに青臭く、無垢つけき若者。若きエネルギーを、どちらの方向に飛ばし向かおうとさせるのやら…。多くの主張を正義と心得、簡単に譲ることはしない。良きにつけ悪しきにつけ、在り方によっては厄介で軌道修正の余地がないほどに頑張る。私もまた、そんな時代の中にあって、やはり看護学生生活(看護学校、寮生活の窮屈さと自由さの中で)は、青春の足跡として記憶に残っています。

 

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【第2章】1節 看護師への道~自由の風なびく高等学校生活から看護学校へ~

私が通った県立T高等学校は、太平洋の海原に神島と称する厳かに浮かぶ自然豊かな島(人の立ち入り禁止)と砂浜と湾沿いに植えられた防波用の松林が続く風光明媚で、私達の市街地ご自慢のデートコースでもある臨海道に面して建っていました。現在、その学び舎は、台風・地震・津波災害などの防災対策上、小高い山(丘?)の上に移転して久しく、現学舎への望郷感は湧いてこない(申し訳ない!)。最終学年の3年時のクラス編成は、普通クラス4組・進学クラス4組に分かれ、高校最後の1年を過ごしました。

私は一応進学クラスに入りましたが、私自身、勉強に勤しんだ記憶はなく、クラスの男女7~8人の有志グループで、山や海へのハイキング・キャンプを楽しむこともしばしば。高らかな笑い声は青春そのものだったかな?時々は自制の効いた時事討論とでもいおうか、真剣なディスカッションを展開したり、我がT市の将来像や地方新聞で話題になっているあれこれを話のネタにしたりもして楽しい時間を過ごすことができました。

こうした学生時代の経験は、後々の私自身の在り方というか一つの選択をして次に進めていこうとするとき等に、何かしら背中を押してくれる力になってくれたような気がしていますね。友人達もまた、その後に歩む道を経ながら齢を重ね、夫々のライフスタイルを創ってきたことでしょう。後期高齢となった今は、皆で時々に会合して、郷愁に浸るその時間は、私たちの得難いエネルギーの再生時間となっており、快い健全さに感謝し、生かされている命への感謝を想う時間となっているように思います。

さて、念願の看護学校への入学を果たした私。
初っ端の思い出話は、高等看護学校受験時のエピソードを述懐してみましょう。

入試願書は、私立1校、公立系2校(地元1校含む)の3校に提出して受験することになりました。私の本心は、地元から離れて、県外は大阪の学校に入学したく、私立の住友病院付属高等看護学院、公立の大阪市立看護学校に挑戦し、3校目挑戦は地元看護学校を受験することにしました。(註:大まかな私の認識になるが、その時代の看護学校は、戦後(昭和25年頃)のGHQの指導もあって、看護婦の高等教育の必要性を求めて、看護婦の名立たる先人方のご尽力の下に、看護教育の概要が整えられ、准看護婦養成所、高等看護婦養成学校、短期大学看護学校、大学医学部付属看護学校、高等看護教育の改善、新たな教育基本要綱の基、その発展途上にありました。)

受験時日程については、詳細の記憶が既に曖昧になっていて正確に記述できないが、入試の流れの前後誤認はあるにせよ、輪郭的に大きな間違いは無いと思います。

初回挑戦の住友病院付属高等看護学院の受験時のこと。
一次試験は筆記試験。確か9時から午後3時頃までだったかといます。定員20名に対して約70名の受験生でしたが、数名の欠席者がいたようです。筆記試験が終わるとそれぞれに散会して、翌日の午前8時30分頃には一次合格発表があり、看護学院の玄関に掲げられた大きな模造紙に一次合格者の番号が書き出されていました。合格者は、確かそのまま10時からの採血・検尿・X-P検査を受ける という段取りになっており、1階の教室に待機していました。まもなくベテランらしき看護師さん2名ほどが採血をして下さいました。とても手際よく、手早く、必ずしも私達と目を合わせることはなかったが、声掛けは耳触りが良く優しかったのを覚えています。その後、病院のX-P室にて胸部X-P撮影・検尿提出という順調な流れに従いながら、いよいよ私の採血の順番が回ってきました。

ところが、冬場の寒さが影響してか、緊張のせいか、血管がなかなか浮かび上がらなくて、ベテランの看護師さんが3度ほど採血針を刺入するのですが血管に当らず。やがて用意されたバケツのお湯に左右の腕を突っ込んで温めた後、看護婦さんが変わって再度、両腕の刺入を試みるのですが、血管に当らず。(私は神経の刺激痛に黙々と耐えて頑張っているのですが……)。

終に、小児科のお医者様が来られることになって、「楠本さん、もう一度採血させてください。小児科のベテランの先生に採血していただきますから、もう少しの辛抱をしてくださいね。ごめんなさいね。」と、看護婦さんの切なる懇願もあって…。まもなくお出でいただいた小児科先生に黙って両腕を差し出して……すると駆血帯で縛られた腕は、素早い間合いでチクリとしたと思ったら、私の血液が注射器の中にス~ッと吸い込まれているではありませんか…?!瞬時にほっとした時はすでに抜針という早業。先生は、『よかったね。もう大丈夫。』と、笑いかけて下さり立ち去って行かれましたが、見事な早業!無痛の採血!それまでの皆さんのご苦労と私の苦痛は何だったというのか?

第一次筆記試験、第二次面接試験も無事終了して、3日目の夕方に合格発表と相成り、私は「合格」を果たしました。住友病院付属看護学校は、第一志望でもあり、もうあの採血の苦痛は二度としたくなかったので、残る2校の受験はキャンセルということに。

合格20名+補欠5~6名であったかと思いますが、私は、住友病院付属高等看護学院への入学を決めたのでした。決めた瞬間は、静かな嬉しさが、体中に浸み入るように流れる感覚を味わいました。

看護学校の入学式は、4月6~7日だったかと思いますが、その時の新入生(住友高等看護学院5回生)は、20名の定員を割って16名。

高等看護学院始まっての欠員スタートでした。

 

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【第1章】6節 中学生・高校生の頃~多感の驚きとそのエネルギーが懐かしい~

もう少し、小学校・中学校の頃に感じていたことを懐かしんでみましょう。

小学時の各学年は1クラス50名の7~8クラス編成。担任の先生は、男:女=5:3の構成で、どの先生方もしっかりした貫録があり大きく見えました。

特に、4年生以降になると周りが見えてきますから、先生方への畏れと緊張感を持ちながら、その感情を飛び越えて話をすることができていました。ですから私達生徒は、やんちゃっ気も加えて、きさんじ(関西の方言で呑気・素直・生真面目)なこども達であったと思います。

その頃の先生方は、教育の自由を求めて、気迫さをもって戦後民主主義教育の模索を続け、お互い議論をしながら、試行錯誤で取り組んでいました。誤解を持つ私の見解かもしれませんが、真新しい思想「民主主義」への変換を、実践的に成し得ていく教育道を求めて進もうとする真面目さが伝わってきました。
生徒たちの親も、PTA活動をとおして、けっこう先生方との意見交換をしていて、見解の相違からかトラブルも表面化する事がありましたが、オープンにしてましたから、各家庭で議論をすることが多かったように思います(思えば、小生意気な口調で知ったかぶりに意見などを言い合っていたかな)。

中学校に入学した時も先生方は、民主主義が求める教育の模索を試みていましたね。先生たちも、また、私達の愉快な仲間たちでもありました。

皆、明るくて活動的な先生方でしたから、当初から生徒たちは、先生方と対等な感覚で何かにつけてディスカッションするという風潮ができていきました。1学年8クラス(1クラス50人規模)の担任の先生方の結束は強く、且つ、自由な学校の校風を創ろうという気概と闊達な行動をされていたように感じます。

時は昭和34年~40年代半ばの歴史背景ではありますが、集団就職の悲喜こもごもの情景が社会風物詩ともなった時代です。その頃の高校進学・就職率は5分5分比で、約半数の生徒が中学を卒業して京阪神・東京方面への集団就職をしていきました。あの頃大ヒットした井沢八郎さんが歌う「あゝ上野駅」に励まされ、元気づけられた方々が多かったのではないでしょうか?

私の将来の選択に関しては、中学3年時の担任先生が、背中を押してくださいました。
「君のお母さんは、今は健康になって元気で働いている。経済の基盤も安定してきているようだ。今までは大変だったけど、もう一度お母さんと自分の将来について相談して決めてみないか?」

私は、高校進学ではなく、准看護婦養成学校に進むことにしていて、最終段階での申請を出していました。勿論、私は、心中それを望んでいたのではなく、高校に進学したかったので、先生にチャンスを頂いたような嬉しさがありました。

実は担任先生は、私の父の同級生。中学時代を父と共に過ごされたようで、3年時の夏休み前、「君のお父さんには、僕はお世話になった。チビすけの僕に善くしてくれた恩人なんだよ。その友の娘さんの担任になったとは、何か不思議な気がしている…。僕は、やはり君には、必ずや高校に進学して正看護婦さんの看護学校に進んでもらいたいと思っているよ。このことをもう一度お母さんと相談してみないか?僕がお母さんと相談しても良いよ。」と。

そのような経過を経て、私は高校への進学を決めることができました。

わが町の教育信条には、「自由な校風を創る」という風潮があり、私の高校時代にも継続されていました。全ての教員たちの、気概のあふれる「生き甲斐や働き甲斐」に翔ける思いを思いだします。生徒たちにとって嬉しかったのは、私達は、爽やかでしたし、甘えん坊でしたし、独りではなく結構同級生の皆と高校生活を謳歌できたことです。

看護師への道を選択できた本気度は、教育の現場で育まれ、これからの社会に生きていく真摯さへの原体験ができたのだと思います。

 

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【第1章】5節 中学生・高校生の頃~看護師への道は流れのままに~

ちょっと話は遡りますが、私のニックネームは「ノンちゃん」。このネームの由来がなかなか戴ける話です。

時は小学4年生(1955年…65年前にもなりますね)。学校授業の映画鑑賞で、児童文学作家:石井桃子さん著作「ノンちゃん雲にのる」を映画化したものを鑑賞しました。彗星のごとく現れた新人「鰐淵晴子」さん主演で、目のクリッとした可愛い女の子でした。映画が始まるやまもなく私は、グイグイと画面に吸い込まれるように魅入ってしまいした。

映画の始まりは、鰐淵晴子さん演じる8歳の田代信子(ノンちゃん)。ノンちゃんは、学校から早くまっすぐ家に帰ってきたのだが、真っ先に会いたいお母さまは不在で、その時知らされた不在の理由が、お母さまと兄がノンちゃんに黙って出かけたという。ノンちゃんは置いてきぼりにされてしまったことが悲しすぎて、泣きながら神社の木の上に登り、池に映る空を覘いているうちに、池に落っこちてしまう。その衝撃的な画面に、私はア~ッと声が出てしまったが、大丈夫!ノンちゃんは綿のようにふわふわな白い雲の上に。まるで私は、夢見るノンちゃん状態の幸せ感が充満したひと時でした。

映画のノンちゃんは、バイオリンを弾きバレエを踊る優雅でお転婆な女の子。これはもう鰐淵晴子さんの為に作られた映画であり、私の大好きな世界観が展開されていましたから、見終わってしばらくの期間は、夢心地の日々でした。私も小学3年時までバレエを習い、4年生時より音楽は合奏部に所属して打楽器で活動していたからでしょうか、級友たちは、誰からともなく「夢見るのりちゃんは、これからノンちゃんと呼ぶわ。」と。以来、私の呼び名は「ノンちゃん」。
映画(児童文学)に感化され、皆が呼んで下さる「ノンちゃん」の響きが、心地よく耳に馴染んでいるのです。

 

さて小学校を卒業し、やがて中学・高校時代を経て、看護学校時代、看護師時代へと話は展開させていきますが、こうして時代折々のエピソードを書きあげていくと、ふと気になることがあります。殊に、幼少期~思春期~青年期の思い出は、遠く年月を経過しており、思い出の良きことは、細部の欠落のおかげ?で美化されて記憶に残っている事もあり、また悲しく憂う事象などの記憶は、その時の感情がおぼろげな不確かさがあって、さらに大げさな表現になったり、あるいは何事もなくすり抜けてノープロブレム(同化)になってしまっているなと思われます。このあとに続くお話も、不確かなままで語ってしまう、その辺の胡散臭さが表出されているかもしれませんが、そのような記憶間違いもあるという恐れを持ちながら、大筋を見失わぬように気を付けて記憶を辿っていきたいと思っています。

 

“私は、看護婦(古称)になる”未来像が明確に意識化されたのは、中学生半ば(2年生~3年生初期の頃)でした。そこにたどり着く思考プロセスは決して確信的ではなく、母の繰り返す尋常でない持病の疼痛発作が、私の手におえる範疇ではない修羅場のごとくでしたが、その時は、ひたすら一生懸命背中をさすったり、浮腫む足を摩ったり、吐物の始末、トイレ介助等々、苦痛事ではなく坦々とやり果せながら、深層には、母は死ぬかもしれない不安を持っていたのだが…。はたして、この状況をどのように受け入れ、どのようにすれば良い方向へと母を看てあげられるのか?

誰にどのように相談して良いのかさえ解らず、積極的な思案を口にすることはなく、周囲の伯父叔母の援けを頂き、言われるままにお世話をしながら、お金を触ったこともなければ、正直、お医者さん看護婦さんに接する度合いは少なく、遠い存在でしたから、所作の一部始終を見届けることはできなかった。一人で母の介助をしないといけない時、看護婦さんだったら、こんな時どうしてあげるんだろう?と思ったことはあるが…、自分の力の限界、現実の悲しみを黙って背負っていたのだろうか?本当に何も感じていなかったのか?実際のところ、私はどんな感性を持っていたのか定かに思い出せない。

やがて1~3か月の病が癒えて、母は健康・元気を取り戻すと、ただちに働き始め、身体上のダメージの過酷さをものともせずに平常の生活に戻していく姿を見るに於いては、嬉しいに違いなかったが、流石に私は辛い思い「母は本当に大丈夫なのか?母は無理しているのでは?」と信じられない思いが流れていました。しかし、思いは、たちまちのうちに払拭され、母は、勢いを得た魚のように動き回り、声に力が入り、笑い声は高らかに豹変していく。母には、いつも、何とか楽にしてあげたいと、思うことしきりでしたが、周囲の人たちに、その心情を伝えることはなかったと今でも思っている。母の調子は、中学1年生を終えた頃から好転し、順調に安定した健康体を維持し始め、定職にも付けるようになりました。

 

ところで、中学1年生後半ごろから、友達は何故か「ノンちゃんは将来看護婦さんになる」と公認されていたのですが、これには、びっくり!!それ何処からの発信?と思ったけれど、担任の先生、保健室の先生などが、私と面談するたびに、「あなたは、将来、看護婦さんになる人やから、しっかり道を開いていかんとね。」と。看護婦への想像が育まれたのでもなく思索が無いままに、私の歩むべき道が「看護婦になる」と刷り込まれていて驚くが、それ自体、私自身が、身の程をわきまえた(?)当然の将来像として、疑問を持たずに受け入れていたということかもしれません。あるいはもしかして、私の母が、担任の先生などに、娘の将来の心配を話し、母自身の健康状態を話して私達、母子への理解を懇願していたのかもしれないが。

中学・高校を通して、ナイチンゲールの物語は、既に耳に目にして知ってはいましたが、「看護婦になる」意識化が明確になっても、実質、クリミヤ戦争での彼女の看護活動を深く知ることはありませんでした。看護婦さん像に関して語り合う、友達、先輩、先生たちとの接点を探る由もなく、看護への道に射してくるであろう光のまぶしさに思いを果せることなく、ただ流れのままに、当然の選択をしていたのだなと残念感が漂ってます。

果たして、「私は、看護婦になる」この意識化が、今後、どのように変遷していくのだろうか?

 


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【第1章】4節 二人の祖父と私 ~私の看護における感性の芽生え~

第2話 母方のお爺ちゃん

彼は、城下町の趣を残す市街を通り抜けた海岸沿いの町の漁師。筋肉の発達した屈強な体格は、背丈と体つきが比較的調和していて、頼もしく男前でした。家に居る時の口数は多くないのに、門外に出ると、街の老若男女問わず皆さんから声がかかり、調子よくその声掛けに乗って話は弾み笑い声が聞こえてくる。話のネタは、たくさん持っていて自由自在な話ゆえ、どんな話が飛び出しているのやら…?時には、近所の小学生~中学生の子ども達3~5人が「話を聴かせて」とやってきて、母屋(お爺ちゃんの家)の縁側に座って待っている。お爺ちゃんご本人にとっては、嬉しいのだろう。穏やかな顔して子ども達を迎える。

そんなに長く相手をして疲れないのか!?もうこれくらいにしてくれという気持ちを隠して愛嬌しているのか…?! ホントの話か作り話か定かでない面白話が、飽きることなく続くので、家の者たちは時折に顔を覗かせ、様子見をする。と、子ども達の顔は、お爺ちゃんに集中していて、そのまま見過ごすしかない。何回聞いても面白い話だと、子ども達の爆笑を誘っていたようだ。

私と母の二人は、母屋の離れに住んでいました。母屋の前には、四角く広い庭があり、その一辺筋に、祭事の用具納屋、外トイレに続いて網納戸、その∟字隣りに離れ屋があり、そこに住んでいました。

母は日々忙しく働き、父方の祖父母の健康上のトラブルが起きれば、介護のために、父の祖父母のところに1~2か月は居住する。その間、私は母屋の叔父夫婦に食事のお世話を受け、夜は9歳上の従姉に泊まりに来ていただいていました。夜の一人は、さすがに怖くて、母の不在を感じる時ではあったけれど、特別、寂しいとか、私の生活はみんなと違って何でこんななのかしら?とか、心がちぢんでしまうことなく過ごしたように思われ、むしろ寂しさを感じとられないように振る舞っていたように思っています。お爺ちゃんの出かける時には、大概どこにでも付いて行きました。二人は、漁後の網を洗ったり、干したり、破れを繕ったりする浜辺の小屋に行って、一仕事終えての帰り道には、知人の家に寄っては短い談笑したり、お店に寄って私のお菓子を買ったりしながら、小高い家路の坂道を上っていくのだ。長閑(のどか)な闊歩でお爺ちゃんと二人なんて、ちょっといい場面じゃありませんか?

彼は、どの子に対しても「子供は宝」と分け隔てなく接してくれていましたから、子ども達にとっては、お爺ちゃんの懐に飛び込んでも許してもらえる、安心で安全な基地と感じていたのだと思います。漁師としての彼は、洋行帰りの人。戦前(何年かは不詳)にハワイに渡り、3年間ほど現地の人達に、漁の方法、網の使い方、網の作り方・修理の仕方等々指導官として働いたそうで、第二次世界大戦の開戦直前に、帰国してきたと聞いている。

帰国に際しては、ミシンやらハサミ、爪切りなどの鉄製の日用品(成人している子ども達4人分)、パイン缶詰、その他の缶詰やチョコレートなどの食料品、を沢山日本に送っているが、ミシン2台と鉄製の日用品などは没収されたらしい。幸い我が家のミシン・ハサミや他の金属製品は無事でした。けれど、ミシンは古くなるにつけ革のベルトが切れたり、ゆるんだりしてミシンの車輪から外れては、足踏み車輪を回し回ししながら輪に組み込ませて使うなどして(中学1年ごろまでは使っていたはずです)。やがてミシンは、交換部品が無くなり車輪の革ひもは特注で高価すぎましたから、いつの間にか、我が家から消えました。ただ、今も尚、使い続けている爪切りやハサミなどは、骨董品級の大切な日用品になっているのです。大したものではないか?と改めて思うところです。

さて、お爺ちゃんのもう一つの人となりをお話ししましょう。

彼は愛煙家。その喫煙の様は独特で、泰然自若に構えて“あゝなんてうまいんだ~?!”、長いキセルの先端の小さな杯に、刻み煙草を詰め込み、一服一服煙を燻らせながらゆるりゆるり味わっている。外出時にはキセルと刻み煙草を腰に巻いた革ベルトにぶら下げて歩く姿は、なかなか粋で洋行帰りの紛いの嫌みを感じさせぬお爺ちゃんの定番スタイルになっていました。

一週間に3回ぐらいは、キセルを分解してヤニ掃除していましたが、私はそのヤニ掃除の時の匂いが大好きで、新聞紙を広げた上に、分解したキセルを並べ、一つ一つ取り上げては、針金にガーゼを絡ませた棒をキセル管の中に差し込みヤニを掃除していたのですが、煙草ヤニの匂いに近寄って、作業工程を見ていたら、彼は、「子どもはあっちに行っといたほうが良いから…」と私を遠ざけるものの、私はとにかく飽きもせず真近で見ていました。成人して今に於いては、断然“アンチ煙草“派。煙草の匂いは臭くて頭痛を引き起こし、嫌で嫌でたまらない…。未だもって「何故煙草ヤニ掃除の匂いが好きだったのか?」解らないが、あの時のヤニの匂いは、今はもう失われている。

お爺ちゃんは、60代に腰を強打骨折して以来、約7~8年間、寝たきり状態になりました。彼は手術を強く拒否したこともあって歩行は敵わなくなってしまいました。下のお世話は、同居している叔父の妻には決して頼むことなく、何時も私を呼んで、お世話をさせていました。時に「なんで私ばかりなのよ。」と不満を持ったこともありましたが、長く私がお世話をしてきた思い出は忘れ難しです。

 

私の二人の御祖父ちゃんを語ってきましたが、こうした原体験が、私の看護師の歩みにどのように影響しているのか?と思い返します。その時は深い思考が働いたわけではないので、確たる思いを述べることはできません。そして、私は必ずしも、人の老い、老いを生きながら死に向う身体の理不尽さを理屈を解って捉えてはいなかったけれど、哀しく二人の老人を見送ったのではない。息苦しそうに絶え絶えに呼吸している老人に成り代わって何とかしてあげたいという思いが込み上げて、何とかしてあげたいと思ったのでもない。それ以上の事は何もできない自分の非力に悲しんだわけではない。むしろ死にゆくお爺ちゃんの、その時が来た…と受け止めていたように思われ、二人の祖父は静かに死を迎えました。

死の臨床にあって、苦しみと悲しみが交差して、死は人の不幸ごとと捉えなければならない場面を経験したのではなく、穏やかな二人の老人の死の場面に居合わせていた、という中学・高校時の私の体験でした。

 


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【第1章】3節 二人の祖父と私 ~私の看護における感性の芽生え~

私は、二人の祖父(お爺ちゃん)っ子。父親の顔を知らずに育ったけれど、幼い頃から小学・中学・高校までを父方母方のお爺ちゃん二人には、とても可愛がっていただいた。
この二人のお爺ちゃんとの思い出を振り返えっていたら、これは、私の看護における感性が芽生えていく過程の一つとして見過ごしてはいけない二人との暮らしじゃないのか? ハッと気づかされたままに、私の思い出の一頁として書き記すことにしました。

 

第一話 父方のお爺ちゃん。

彼は、お寺の和尚さん!禅宗の僧侶として住職をしておりました。面長で華奢な顔つきをしていて、若い時はきっとモテたにちがいない色香漂う寡黙なお人柄でした(写真で見る限り私の父は、お爺ちゃん似なのです)。

他人様の嫌事、悪口は耳にしたことなく、毎日の定番の仕草は、観音堂でのお経を唱えた後、特に秋から冬の間には、静かに火鉢の傍に座り、灰の中にくべられていたひとかけらの残り炭火を手繰り出し、それを囲うように炭を重ね置き、しばし火の熾るのを整えてから、一合のお酒を入れた鉄瓶をかけて、ゆっくり、しゅんしゅんと湧かし始めるのです。私は、何時からともなくそのそばに座って、鉄瓶を眺めたり、お爺ちゃんの仕草を見やったり、無言の空間で目を合わせたり…と、少々おませな座姿ではあったか?とは思うが、お爺ちゃんと私の二人きりのその時間は、苦痛でもなんでもなく、無言と静かな語らいの安らぎが流れていたことは、確かな記憶として残っている。
やっぱり、少々おませさんだったかもしれないが、良く笑う子でもありましたよ。

村郷の山の中腹に建てられているお寺は、その構えからして由緒あるお寺の佇まいで、広い敷地には、大きな蓮池があり、蓮の花が咲き蓮の実が生れば、Y字型にした竹先で実を刈れば、お婆ちゃんがそれをこしらえて食卓に載せてくれていました。コリコリと美味しく、また粉にしては蓮餅にもしてくれて、美味しいとか不味いとかではなく、へえ~?!ってな珍しい食べ物感覚で頂いたかしらね。蓮池はもう既に跡形もなく埋められて50年は経っており、蓮の実の匂いとか蓮料理の味はもう忘れてしまっている。

また、本堂の裏側にある前栽には、枝の張った柿の木が5~6本あり、何時も秋には美味しい実を付けていました。お婆ちゃんが申すには、「この柿はそこら辺にある柿とは違う珍しい柿で、とても美味しいんやから…」と。代替わりをして間もなく、その珍しい柿は伐採され、一面ツツジの花咲く庭になりましたが、柿名も思い出すことのできなくなった今は、ちょっとした悔しみが残っているかな。

お寺の外回りには、竹藪に囲まれた池があり、これは流石に不気味な池と心得ていて、近寄り難かったものです。そこから続く小高い丘を登っていくと墓群があり、その頃は土葬されていたので人魂と言われる空中を浮遊する火の玉にしばしば出くわしたものです。恐怖感で全身が固まり、怖さのあまりその度にお爺ちゃんにしがみついていたけれど、泣くことはしませんでした。この火の玉について、今思えば、まことに納得する科学現象であったわけです。火の玉の正体とは、遺体からリンという科学物質が出て、それが雨水と反応して光るというのであるというわけです。
「くわばら!あれ~!くわばら」と、念仏を唱えながら、お爺ちゃんにしがみついていたのかどうか…不明だが、怖いながらも泣くこともせず…の私に、禅宗僧侶の作務衣を着たお爺ちゃんが申すには、「何も怖いことではないからのう。お人が死んで、少し彷徨って成仏して往くんやからのう」???やんわりと支えられて、その静かな暖かさに安堵していたのだろと思っている。

子ども時代には、人の死の苦しみは解らなかったけれども、死人との対面の恐怖は、ず~っと付きまとっていてトラウマ的な思いにも覆われていてたが、そうこうしながら、村人の死を弔うお爺ちゃんの姿を、遠目に静かに追いながら、そのあり様を心に留め置いてきたように思われます。死に行く人々、亡くなられた人々と共に暮らし、村の住人同士の親しみの中で、静かに丁寧に弔うお爺ちゃんには、凛とした眺め様があり近寄り難くあったように思われます。一つのイベントを終えて、お寺に帰り来れば、お疲れさん!お帰り!いつもと同じように声を届け迎えていたお婆ちゃんもいた光景が思い出されてきます。

母と私の住まいは、お寺のお爺ちゃんの住まう場所から、山を下り(登りて)バス停までは40分、バスに乗車してわが住まいの駅まで30分の道程ですが、小学校入学以降は、私一人で、月一回~二回は往復したものです。しかし私はバスに弱く、バスに酔う様は、顔面蒼白、嘔吐で全身グタッとなる。バスの到着地点までを、懸命にながらえながら、いざ!バスから降りると、山道を歩くうちに気分快復して笑顔でお寺に到着。

「お爺ちゃん、お婆ちゃん、範子で~す」とご挨拶すれば、「おうおう、よく来たよく来た!一人で偉いわ!」と迎えてくれる。「ご飯食べたか?」は定番に聞くことばだが、私はいつも「お弁当持ってるから大丈夫」と云う。母は、必ず私に弁当を持たせて送り出してくれたけれど、これは当時の母の気遣いであり、父の居なくなった両親に迷惑をかけれないと何時も持たせてくれたお弁当でした。草むらでお弁当を開いて一人で食べる私には、寂しいとか哀しいとか感じたことはなく、村の土・草の匂いの中で気持ちよく食したものですし、田舎では、蛇やカエルやバッタ、ナメクジやイモリ・ヤモリなどとの出会いがある。血の気の引くような出会いに驚き逃げ帰るなどもあったが、無事に過ごし得たことに感謝の思いは深く残っています。

お婆ちゃんは小学5年時に、お爺ちゃんは中学生の終わりの時に他界しましたが、お爺ちゃんとは、息を引き取る間際まで、私が付き添って静かにお別れをすることができました。誰もがお爺ちゃんとの時間をこのように共有できたわけではなく、月2回ごとに尋ねていた私とお爺ちゃんの終わり方であるわけです。

一人住まいのお爺ちゃん家の往復の楽しみは、「またねえ~!また来るよ~!元気でね~!」何度も振り返りながら、大きな声で連呼しながら、山を下りて帰っていくというこの繋がりが、かけがえのない鮮明な思い出となって生き続けているのです。

おセンチになったかもしれませんが、私は人の死の向かい合い方、受け入れ方をお爺ちゃんとの思い出の中に養われていたように思います。

 


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【第1章】2節 戦後間もない敗戦から復興期のワンシーン

70数年前の子どもの頃(3歳くらい?まで)は、終戦後の疲弊感が漂っていた。
と言っても、終戦間際の何日か前、町に焼夷弾が落とされ、家を焼かれ怪我をするなどの傷害を受けた方々がいらっしゃったものの、小さな地方の城下町全体は悲惨極まりない状況とはならず、大きなダメージとなることはなかった。そしてようやく落ち着きを取り戻し始めていたが、どの家々も貧乏状態は皆同じであり、子だくさん家族が多かった。

だから本当に泣き声笑い声怒鳴り声ひしめき声が入り混じり、あけすけに家の周りのあちこちから、朝な夕なに、子どもの大きな声が聞こえてくる。
子ども達がたくさん居るというのは、そういう不規則で不定期で不協な和音が響きあうってことであり、要するに、父母に叱られ怒鳴られ叩かれたりの直ぐあとに「ワァ~ッ」と泣き叫ぶ声が聞こえ、また兄弟姉妹入り乱れての喧嘩が始まると、ドタン!バタン!ビシャン!倒しあい、ぶつかり合い、平手打ち、等々どんでん返しの物騒な音が聞こえてくる。密室の出来事、暗い出来事というのではなく、案外壮絶であってあけすけな風景だったのだ。

海(湾)を前にした漁師町は、活気あるあけすけの街であった。だから子どもたちの声が響くと、家の中では母と私が、「○○ちゃんがまた叱られてる。」とか「なんであんなに兄弟げんかばかりするんだろうか」とか、「何もあんな大きな声出して、暴れたり障子を壊したりせんでもいいのに。」とか。母は母なりに「××ちゃん、腹立つことあったんやろうね。」「いつも今の時間になると怒られてるね。お腹空いててお母さんに無理言うてるみたいやね。」「兄弟多いからおやつ無いからなぁ…後でこのおまんじゅう持って行ってあげようかね。」「あんたも、お母さんのいう事聞かずにしつっこい事したら怒られるよ。」「あんたはすぐ泣く子やから、泣きすぎるようなことしてたら、泣く涙無いようになってしまうで。」「いう事聞けないなら、目咬んで死にな。」何の意味かわからないような、会話にもならない母子の会話をしては、母子間のややこしい感情に緊張感を走らせながら、周囲の音に聞き耳を立てていたものである。
私は一人っ子だったから、物資の少ないご時世を呑気に生きていたように思う。母は、質素な身近にある食材を工夫してこしらえてくれたので、おかげで喧嘩もせず食いはぐれもなく生活できた有難さは心中にしっかとしみ入っている。

しかも有難いことに、私の父方の祖父母が寺住職でしたから、仏様のご供養物のお下がりの分配を届けていただけたり、母方の祖父はハワイ帰りの人でしたので、ハワイのパイナップル缶やその他の缶詰食材に与かるなど、案外満たされた幸せな一時期を過ごせてたのです。

でも、世の中は貧乏でしたから、母は生計を立てるべくありとあらゆる仕事に立ち向かっていました。また、1~2年に一度はやってくる胆石の激痛に見舞われ、その頃の痛みどめ薬は、モルヒネという注射薬に救いを求め、病の癒える3~4か月の療養を存(ながら)えて、働きに出て、また私を育ててくれましたから、そのご苦労の大変さたるや、今も忘れ得ぬ亡き母の思い出の核となっています。

私の看護師になる願望は、くり返される母の闘病が原体験となっていると思う。母のノタウツ痛みに対して何もしてあげれないわが身に心を痛め、そこから派生する将来への思いとして「私は大きくなったら看護師(婦)さんになるんだ」と、思いが積み重ねられたのだと思います。

1944年6月某日、終戦の約1年3か月前にこの世に生まれ出た戦争を知らない子(私)。
けれど胎教という点から眺めると、母の胎内で戦争の悲惨を感知していたはず。唯一戦争の直後の片鱗に触れた思い出が、淡い記憶として残っているワンシーンがある。
生まれてきて3年ほど経ったある日、まだ進駐軍への恐れが解けないわが町に、進駐軍がジープに乗ってやってきた。なぜか私は、9歳上の従姉の手を離れ、最前列によちよち歩き出て眺めていたようだ。一人の軍人さんがジープから下りてきて私を抱き上げてくれたのだが、遠巻きに海岸沿いに集まって眺めていた地元の人達が、びっくりするやら大騒ぎ。
「ノンちゃんが進駐軍の兵隊さんにさらわれた!」「早くお母さんに連絡して~!」と叫び、母を呼びに行ったらしいが、私は、キョトンとして兵隊さんの膝の上に乗せてもらっていて、チョコレートやチュウインガムやクッキーを頂いて、うれしそうにしていたのだという。呼ばれて走ってきた母が、泣き崩れるように「どうしたらええの?」と叫んでいたらしいが、まもなく私は兵隊さんに連れられて、みんなのところに戻ってきた次第。この逸話は、母の生前、よく語られ、今も尚、従姉が語ってくれます。泣きもせず、にこりともせず、兵隊さんに「ニコニコ バ~」などとあやされながら、抱っこされていたという。
私の心臓は、そんなに強心ではない。
ほんとにその時どんな顔してどんな気持ちで、抱かれてたんだろうと思うが、私の記憶には、「兵隊さんに抱っこされて車に乗った」この感触だけが残っており、まんざら嘘ではない事実なのではある。と思ってはいるけれど、怖がりの私は、ホントにすんなりと抱っこされて車に乗ったのだろうか?と疑問にも思っている。

戦時中、あるいは敗戦後の日本については、当時、4歳以上の方々なら、後々の人々に具体的に語られもしようが、私はほとんど戦後派と呼ばれる層に入るのだと思います。
また、和歌山県は主要都市、大都市でもなく、私の住む町は半島南部で、戦争惨禍の傷は深く有るにはあるが、私が何か深く確信的に語れるものは何もないのです。
多くの書物を読むにつけ、戦争を知るということになるわけです。戦争に関連する書物は日本だけでなく、世界の書物を読んで知るべしの大きな遺産だと思います。

皆さんが、社会的な活躍を通して、色々な理不尽さや心痛む出来事、現象に出くわしながら、自分の人生を見つめて、希望に向って生きていく糧になりえましょう。

また、次の物語を楽しみにしてくださいね。


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