夏過ぎて秋となり…!? 気候の変わり目を日暮らす日々!!

秋の名月を愛でる静かな喜びは、素直に心地よき季節の到来と思い巡らせ、楽しむことが多くなりますよね。

健康的で、健全な営みの意識が高まる季節と心得れば、身体が自ずと気まわりの心地よさを知らせてくれるようで、日常の生業が穏やかに力づけられていると思われる?不思議な秋の季節。

いやいや、人々は秋の色とりどりな山野の風景や、食材が豊かに出そろってくれば、眼の包容さは、勢いよくメロメロに。
秋の紅葉・果物の収穫は、ほんのひと時とはいえ、夏場からのお疲れモードを吹き飛ばし、身も心も軽やかにしてくれてありがたい。
すべて能動的な心地よさに包まれると、身体の動きが軽く感じ、感謝の気持ちが慎ましく蘇えって来るようですが…。

超高齢者同士2~3人が、ゆるゆるお散歩会話しあえば、笑いあり、変な話のヒソヒソ話あり、抑揚感の共有、非日常的な集いとなり、ある種の拘束感からの解放、決して一人では為しえない面白さ、楽しい「時間」の創作となり、思いっきり笑って声を出して、何かおしゃべりのチャンスあり、自己表現しえる至福の時間と言ってもいい貴重な交流が広がるのです。

秋の空は、女心にも男心にも例えられ、如何様にも楽しめますし、家の周りの色づきに気が付いて植栽の木々や草花を見やり、おもむろに、空を見上げれば、青空に漂う雲までもが、風の流れに揺らめき穏やかに時には繁く流れ動く。

そして何時の間にか雲の絵面が如何様にも変わるものですから、何時までも追いかけたくなって、お空を見上げたままに歩けば、当然危なく、足元に気をつけなきゃあ…と気がかりになって、お互い注意喚起し合っている。

もたもたとお互いを気遣い合いながら歩くうちに、ほどなく、だれ彼となく周辺の景色に目配せして話し出す迷走という不思議の力。
樹木や草花の名を、「ほれほれ、アレヨアレ、何だったかな、あそこに行ったときにも咲いてたよね、あの花ほらっ!名前なんだっけ?あゝ出てこない、わかっているのに出てこない、とにかくこんなにきれいに咲くものなんね~なんだったっけ?秋に咲くのよね~!」
「そうなんよ!私もここまで出てきて、あなたの慌てぶりに引き込まれちゃって、名前が出てこない。あゝ…すぐそこまで出てきてるのに~!涙でる~」
などと戯れ笑い合う構図は、決して終わりのない嘆きあいというべきか?
秋の温度感を受けとめ、うれしさひとしおの感情が高まっているというのに、まとまりようのない時間が過ぎゆくのです。

しかし、高齢と言えども皆さんの感性は、繊細にして幼児の様に柔らかい。表現は確かで、ある意味、ヒントを得ながら本名にたどり着くという不毛さを抱えながら、聴き学べる時間であり心が弾ける貴重な時間なのです。

こうして話ていると、私自身は、おばあちゃまの世界に、どっぷりはまってきているのを自覚してきます。
現在のシニアマンションに引越しして3年余。
近頃は、居住者がドッと倍増し、その勢いは、新しき居住者様の名を覚えることできず増加の勢いに押され気味。

秋の季節は、早々と冬に向かうのだろうか?まだまだ暑さ厳しく、しかし、秋めいているのを感じて、うれしくなるこの頃です。

夏過ぎて秋きたる…!? 体力強化の季節と心得るなり~!!

ようやくに秋来たりて名月を愛でる静かな喜びは、素直に心地よき季節の到来と心得て如何様にも思い巡らせては、楽しむこと多くなるものですね。

健康的で、健全な営みの意識も高まる季節と心得れば、体力強化の季節と力づく思いが強くなる。
いやいや体力ある限り、人々は秋の色とりどりな山野の風景に靡かれては、メロメロに。
お疲れも何のその。身も心も軽やかに動き始めてありがたい。
すべて能動的な心地よさに、身体の動きが軽やかになっているのではないでしょうか?

実り多き秋の収穫はありがたく、家の周りの木々、草花、空の雲までもが風の流れに揺らめき、ほどなく周辺の景色に目をやれば、既に秋の終わりを知らせる景色への色づきが巡りくるのですから、意識しようとしまいと、優しく秋の温度感を受けとめることができ、うれしくなるものです。
殊に、あの秋の空は、女心にも男心にも例えられ、如何様にも変化する様は結構楽しめますね。

さて!秋の季節になってきた近頃は、まだまだ暑さ厳しくはあるけれど、なぜか秋めいているのを感じてうれしくなります。
そこで、早速ながら、体を鍛える季節と心得て、運動習慣を身に着け、日常生活上の体力のリセットを試みる時なのです。

実は私は、昨年の後半から、一定の運動(標準歩数+α歩数≒1日1万歩)を努力目標に設定し(ちょっと多めですけどね)、脚力強化を意識して「足の膝あげ歩行」で歩行してみることにしていますが、案外な歩数を歩けているのです。
少なくとも1日6~7千歩は歩けており、プラスして、我が室内歩数を1千歩に設定、プラスマンション館内の所用歩数を2~4千歩として計算すれば、1日1万歩前後となり、この設定は1週間試行しても、負担感もなく、そのペースで努力している最中ということになります。
まァ、高齢者は、ちょっと休んだだけでも、筋肉が固まりやすいため、まめに動いている方が良いと言われます。
実際、そういう筋肉の固まり感は、皆さん経験する事が多いですよね?納得な話です。

1日1万歩を目標設定して、始めたのですが、身にかかる負担の加減(身体への負担感の重さ回復速度や回復過程のバランス)がとれるようになれば、標準設定されている歩数より、少し上を歩いてみたくて、身体に感じる快感・負担感は大丈夫か?慎重に機敏に察知するように構えて(通常時と歩行後の脈差とその数値回復時間など)仮設定ながら実施してきたのです。
当初、良き設定かどうか解らなかったけど、とにかく1か月間は、負担感なく歩けて、満足感があり、足全体の筋肉(と言って良いかどうか?)の重量感が感じられるようになり、肉付きが良くなってきたのは確かな実感です。
両脚の運び方も、結構軽やかになり、日常的に、これくらいは歩ける、という確信と、安定した体力の保持ができるという自信となって、挫折感には至っていないのです。
と思っていた矢先のこと、とんでもないしくじりエピソードとなるのですが、私は夏場の異常な暑さをしのぎながら、午前中のボイス・トレーニングに行く往路、余裕あるバス時間を見込んでバス停に行ったところ、既に発車してしまった後。

次のバスは、1時間待ちで、レッスンには間に合わない。さてどうしたものか?
30分~40分かけて歩いて行かなければならないその道は、平坦な道でありそうで、曲がりくねった緩い坂道や、もう少し傾斜のある長い道もを歩かねばならず、お日様は高く照り付け、熱射が酷い。
昔ながらの豪奢な家並みが、うまく影を作っているのだが、すべての家並みがそろって影を作ってくれているわけではなく、秩序のない日照りがあり影ありの緩坂道は、やさしい影ばかりを作ってくれてはいない。
ほんのお裾分けのような影道を、ありがたく思いながら、確かな足取りで歩いて、やっとのことレッスン場にたどり着く。

汗にまみれ、吐く息は荒々しく、しばらくは、ゆるりゆるりと腰を曲げては伸ばし、伸ばしては曲げをしながら体調整備や汗取りをしなければならなかった。
このしんどさは、その後日、私の体調に大きく影響したことは間違いない。

翌朝、へばった身体は、しっかり脱水症状を呈しふらつき状態で、まもなく近くのクリニックを受診したところ、血圧は最高値78と低く、左手の痺れ感も含めて、危険な脱水症状をきたしていると。
(実は、昨日家に着いた後は、休息もし、水分を補給したつもりでした。)が、クリニックの先生に、水分量を問われ答えると、「そんな水分量で飲んだことにはならんよ。この血圧の低さ、これは血が巡っておらんし、脳血流も滞って、梗塞起こしてたら大変だ」「いかにも少なすぎるではないか。もっと飲まないと。この暑さでそのくらいの時間、外出するなら、ペットボトル2~3本ぐらいは補給しないと」とのお説教。

確かに、夜は怖いと思いながら、水分をまめに補給する(補給し得てると思っていたが)、頭痛を伴いながら眠れぬままに朝を迎えた次第で、早速、クリニックの先生に診ていただいたその時は、クリニックの冷蔵庫に冷やしているペットボトル水を飲ませていただき、一命を取り留めたと言えば、大げさな~!と言われそうですが、先生に叱られて、頭ふらふらしながら、しっかり飲ませていただき、即、市民病院の脳MRI検査となり、映像では、やはり血流の悪い個所が2か所見つかりましたが、無事、大事を見逃すことなく、早期の対応が取れ、無事に経過したということです。

猛暑が続くこの夏場は、もう終わろうとしているのですが、残暑の暑さは、まだまだ厳しく、依然として水分の補給を怠ってはいけない状況が続きます。
水分を補給して常に血液の流れを良くしておくことが大切です。
皆様は、既にこうした状況も心得て、お過ごしのことと思いますが、私が申すことではないのは承知していることながら、多少、自嘲気味に、念のために申しあげました!!残暑厳しき折柄、お気をつけてお過ごしくださいね。

夏場の日照り最中の歩きは、老いも若きも…ハテッ?

私は、文句なしに“夏場に弱い女”
どうにもしようがなく、夏季の苦痛から逃れられず、我が身を削るように弱っていく。
老いの身にとっては、夏の熱波の体力消耗負担は、二重に重なる苦痛。
身体動作の対処にまごつき、一つ一つの動作が、サッさとスムーズに運ばない。
手がかかり、時間がかかる。
その上、身体の動作が今一つ安定しない平衡感覚の鈍麻は、転びやすいとあって、慎重になるものだから、結構余分な力量を使っているんじゃないか?と…。
夏場の我が身を遠巻きに眺めてみると、もうほんとに御婆ちゃん状態になっていて、滑稽すぎて笑えても来る。
いやいや、そのように貶めて考えるのは止そう!!
大切な命を永らえて今を生きている身ならば、加齢なる滑稽さ、退化への成長過程を受け入れ、時には丁寧に退化の流れに抗してみるのが良いのではと思うが…
とんでもない奇策を考案して周囲を驚かせてみる、という意気込みや楽しみを増やし、愛しみを深くして生きていくのがいいのではないか?
この頃、つくづく我が身の老いる力に、抗すべき何かの手立てを考え実行してみる方法がないものか?と。

しかし、ちょっと老いのボヤキを言わせていただくと、何事の所作も一手間多く、掛かるのを自覚し気持ちが萎えてしまう事が多くなり、弱気に引っ張られてしまいます。
ボヤキを口に出せば、それは良くないという認識はある。
何しろ、顔の表情筋活動が減り、表情の豊かさがなくなり、活き活きしなくなってくるのは確かだから。
さらに、ボヤキを口に出さないようにしているとはいっても、思いっきりボヤいてリセットしてみたくなるという気持ちのざわつきがあるのは、どうしたものか?
何度も支度を繰り返し、一度できれいにすることが段々できなくなり、何事にもドンくさくなっているのである。

時には息子に叱られることもあり、息子の励まし・愛情ある応援叱咤と思うも、さすがに、息子に直言されると、悲嘆のどん底に突き落とされたように悲しくなる(もう少し優しく言ってよネ)。
息子とは離れて暮らしているためか、久しぶりに帰ってきては、母の日常生活動作上の衰え、できていたことができなくなっているなど、高齢ゆえの衰えを見たり感じたりするのは、息子なりに悲しみになっているようで
「僕がキツイ目に言ってしまうのは、そんなお母さんではなかったのに…と思うと悲しくて…!?…、お母さんに発奮してもらいたくて…お母さんに元気で居てほしくて…。つい刺激的な発言になってしまう。お母さんが、僕のそんな返しに、元気な反発とか反応してほしいと思って…。けどつらいことは僕に言ってくれればいいんだから」と。
母は、涙がボワ~!出てきそうになる。
「ありがとう。解ってるよ。でももう少し優しくいってほしいわ」
確かに息子は優しい。街歩くときなど自然体でレディーファーストの巧みな先導・寄り添いをしてくれ、とてもうれしく楽しい時間を提供してくれ、とにかく優しい。
何の不足もない。息子なりに久しぶりに見る母親の老いた姿は、淋しく忍びなく、しみじみ感じるものがあるのでしょう。
彼の繊細な優しさには、母としては幸せ感に満たされるひと時です。

高齢の日常生活を自立して、一人で生きている場合、生活上のアレコレに関しては、自分流に省略をし、丁寧な所作で毎日を過ごすよりは、身軽くこぎれいにできるだけ負担を省き、手早く済ませるという活動習慣を、身に着けていくことが多くなり、我流に便利よい生活動作をこなし面倒くさいことは省略の一手を使いまくり、et ceteraなのです。

重労働になってしまって、身体全体が参ってしまう前に、後期高齢の活動変化を感知しながら、簡素な生活習慣・生活空間を作っていくことが、必要ではないかとつくづく思うこの頃です。誰かが何とかしてくれるのではなく、自分自身で生活の楽しみを簡素に創造していけるならば、ギリギリの限りまで、これほど楽しく、自分らしく生きていくならば、素晴らしきかな人生であったと、自分に言い聞かせることができるのではないかな?と思いますね。

私自身、夏場の猛暑続きに対しては、簡単に脱水状態になって死を招くというプロセスが、他人事ではないという大きな恐怖心になっていまして、そうはなりたくないという思いは人一倍あるのに、脱水予防・エネルギー不足防止・低血糖予防の対処をしっかり自覚して、外出しているとは限らず、むしろ無頓着ではないかな??
ただ後期高齢者は、体調の変化・我が身に起きた異変を感知しにくいことは、確かにあるように思います。
いずれにせよ、今年の夏は、猛暑・炎暑・激暑なのであり、老いも若きも相当に堪える夏場ではありますね?

皆様、夏場の過労や睡眠不足を防ぎ、脱水予防のために水分補給は十分にまめに行ってください。
そしてこの夏場、元気をキープして過ごしましょう。

七夕の夕べは、ちょっと話題なシニアマンション風景

7月7日は七夕の日。夜空に見えるとは限らぬ、天の河のお出ましは、在りや無しや?
雲のご機嫌、如何様にあるのやら?七夕の星空は見えない年が多いのであるけれど、織姫星と牽牛星の物語は、概ね「年に一度の逢瀬の日」。
やるせなき絵空ごとにすぎないと申せば、それまでのこと。

幼き幼稚園・保育園や託児所の児童たち、高齢者ホームや病院に入院されている方々にとっては、大切な年中行事として、短冊に願いを込めて笹の葉飾りを愛で、夕食膳には、栄養士さんや給食の炊出しをされる職員さんの工夫や楽しみを凝らしたお膳が運ばれてくれば、それは美味しく、また賑やかな食膳となったことでしょう。
我がシニアマンションの人々もまた、夕食のメニューを心待ちにして、美味しく食したことではありました。

ところで夕食しながらの話題が、今夜7時半~9時頃まで行われる、万博公園での花火大会であり、我がマンションの窓から、まる見えのスポットがあるという情報で花が咲いた(笑笑)。
如何にも今夜、雲が多くなれば二つの星(牽牛の彦星と織姫)は、雲隠れしてしまう恐れある天気予報でしたので、何処でデートを楽しんでいるのやら?
かような雲多き空なれば、二つの星にまみえることは無いのである(らしい…)。
が、万博公園の花火ならば、情熱の火花で雲を追い散らしてくれるであろうし、観覧車を真正面に見据え、打ちあがる花火をしっかり見ることができるというのなら、大きな楽しみである。
と心得て、それまでにお風呂にも入って、お待ちしてよく見える場所に見に行きましょうと、其々に散会したものです。
単純な話であり、しばらくはもう忘れていた話でもあったわけですが、こうした話題の交換は、頭の回転を楽しく活性化してくれるものだな?!ドーパミンよしっかり出ておくれ!そして気持ちよく楽しませてくだされや~と祈り願いながら、しばしの時間待ち。

三々五々とそぞろ集まり始め、花火は7時45分ごろより上がり始めました。
私は自室内で、「さて?どうしたものか?最上階まで行くのも、ちと面倒くさいかな」とぐずぐずしていたら、3間(室)向こうの10歳上のお方が誘いに来て下さり、観覧現場まで行って驚いたこと!!

何?これ?一等席?特等席?万博公園の観覧車がこんなに間近に見えるなんて~!?
遠く離れているにもかかわらず、真正面に大きくドシッと位置し、ネオンに色づけされて、きれいに浮かび上がっているのだから、当に特得席なのだ。花火の打ち上げは、ボ~ンと鈍い爆音の2~3秒後に、火の花となって幾重の絵空が展開される。
華々しき花火ショーに満足度の高い心の高ぶりは、居合わせた後期高齢者の歓声を呼び、その音響は、まるで幼児の声の様に屈託なく響きあい、我らが喜びの声は、こだまして8階マンション廊下を弾けていくのです。
グッときてハッとして顔見合わせて「何よね~恥ずかしい~!いい歳して~!幼児でもあるまいし~!あはは~っ!(笑笑笑笑笑~次第に野太い笑い声になりながら響いていくのだ~) つくづく、よくぞここまで生きてきたわ~。こんな幸せな時間を過ごせるなんて~。ここに住むことにしてよかった~。」
感慨ひとしおの呟きは、可愛くてだみ声交じりの幼な声を発していたように思うのです。

発声の刺激で咳込むわけでもなく、次々と打ちあがる大輪・小輪の連続花火が打ちあがると、高齢者にとっての日常生活動作上の不具合に影響されることなく、億劫で面倒くさい動作なども必要とせず、気楽に楽しめる夏の夜空に始まった万博公園花火パノラマショーは、当に百万ドルの観覧の夕べでありました。

注:伝統的な七夕の日は、8月上旬~下旬頃 と毎年大きく変わるのだそうで、今年は7月七夕の星空がみれるチャンス到来との一報が伝えられていました。
しかし、当日は、東日本~西日本の日本海側は、雲の多い空となり星空を見るのは難しい天気(以上、当日2日前の予報)ではありました。当日は、さすがに雨は降りませんでしたが、天の河を愛でることはできませんでした。

今年もまた、我がマンションのロビーには、笹の葉に紐つけられた短冊が賑やかに彩を極め、揺らめいていましたが、短冊には、戦争の平和を願い、自身の健康を願い、共に居住しあう人々の幸せを願い、恋人が見つかりますように・恋人ができますように…牽牛と織姫の墨絵を短冊いっぱいに描いていたり…私もまた、ロマンチックに願い事を、短冊に記し軒端の笹の葉にそっと吊るしてみました…な、今年の七夕模様でした。

大阪関西万博会場の「はて?」…驚きの感動・期待感はありそうですね!

最近やたらと、木造高層ビルが建てられるようになってきて、それって!規制されていたのではなかったか?はて???地震・雷・火災の惨禍!如何なものか?

関西に再び万博開催の話は、嬉々として受け入れていなかった私としては、尚更の違和感やら牽制感が頭を巡らせたものです。

不快極まる思いで、世の中を見まわしてみると、建築界はまさに木造高層建築へとまっしぐらの叡智でもって、すでに建設を可能にしていたのですね。
建築上の法律の改定もあり、近代建築の最先端を進んでいるのでした。
木造高層ビルの手法とは…鉄筋コンクリートの高層ビルが建てられてから116年も経つというのですから、私達の世代が共有している高層ビルの感覚からすれば、万博が終わればすぐ解体されてしまうという思いが先行してしまって、冷めてしまいます。

白い眼の妬み心が呟きもして「それで大丈夫なの?」なんて、生意気にも不安を感じたものでした。
が、そこは既にもう…世界的な建築の手法で、屈強な鉄骨の高層ビルではなく、人にやさしい、環境にやさしい木を利用した木造高層ビルの万博会場・パビリオンが出現するということで決定しているのであって、知識の浅はかな早とちりは、しないに限ると恥じ入った次第で、知識のリセットをしたものの、施政上の対策として「関西万博への再挑戦」は、まだちょっと解せないままでいるけれど…。

 

1970年、世界の国から「こんにちは大阪万博」の開催は、当に「日本の夜明けの時代」。

48年後に至り、不景気感の漂うその時、そして間もなく、新型コロナウィルスの世界的な感染流行直前の2018年11月23日に、フランスはパリでの第164回BIE総会で、万博開催国決定の投票が行われ、「2025年日本国際博覧会(大阪万博)」が決定しました。

2025年5月~184日間(開催期間4月13日~10月13日、開催場所は、大阪湾に浮かぶ人工島・大阪夢洲にわたり開催される大阪万博が決まり、会場建設は「木造の高層ビル建築」が認められました。
建築に関する法律的な改定は2010年、「公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律」が施行され、さらに2021年に改正された「脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律(通称・都市<まち>の木造化推進法)ができ、これにより、建築法が国や地方公共団体とともに、木材利用に取り組む「建築物木材利用促進協定制度」が創設され、行政上の補助金制度なども整いはじめて上記の大阪万博開催が決定したという経緯があります。

現状は、コロナ禍後の想定外の混乱があるなかで、各国の出展準備の遅れ・会場運営の整備も整いにくい状況となり、賛否渦巻く大変なことになりましたが、撤退することは回避され、継続させる強気を通すなど、緊張の終盤整備という今の状況になっているようです。

ここまでの道のりは、経済効果の減速や、これ以上の経費削減どころか、止む無き経費上乗せなどに対して、やはり「撤退」の賛否が、感情的に声高に取り沙汰されるなど、波乱を招いているのですが「大阪万博は開催する」の毅然とした段取りを調整、突貫的な工事日程を整えて、完成の方向に向かっているようです。

今更、何を躊躇する?
強気で開催を実行すべき時であって、なお一層、緊張にして慎重に仕上げをしなければならない。
何だかんだの対立意見を戦わせる時ではなく、失敗させてはいけない細心の注意をもって、臨まなければいけないということです。

進むべきか?!撤退すべきか?!二分する分かれ目の判断は、難しい英断を下さなければならない。
トップの責任とはいえ、このまま推し進めていく以上、失敗は絶対避けていただきたいと願っているのです。

だれもが納得し、きちんと歴史に残る価値ある遺産(レガシー)であってほしいですし「後世に引き継がれていく、持続可能な資源の在処」をきちんと示していただき、世界の名だたる大阪・関西万国博覧会に…とここまで来た以上、そのように創造していただきたい。と願いますよね。

数日前のニュースでは、この木造建築物の大屋根(リング)は、残らないとか…
そのような内容だったと思いますが、本当であれば、なんと、もったいないことか…???

私たちに創造の夢を掻き立てられるという、その期待の在り処とは?

  • 会場の大屋根(リング)は、面積6万㎡の世界最大級の木造建築になり、屋根の上に上ることができ、緑の丘が広がるそう(清々しさが押し寄せてきますね)
  • 屋上からは、会場全体や瀬戸内海を見渡せる(というからには、建築物への期待度が高まりますね)
  • 「多様でありながら一つ」の理念のもとに、それを表する建物になるというのですから、是非感じてみたいものですね。

期待する成功への祈りの中に、世界平和を願い、広く人々との交流を広げ、ホスピタリティーな心を込めて、フレンドリーに大阪万博開催の日を迎えたいと思っているのです。

シニアの人たちが集えば、たしかに賑やかになりますね~の話

シニア・マンションに終の棲家として居住を決めて、早や3年が経ちました。

早いものですねえ、あっという間の3年は、竜宮城とは言わないまでも、ほとんどが楽しく心地よい日々でした、ということのようです。

もちろん私の不安定な体調は、色々様々にあり、孤軍奮闘の様相としては
「病気になって、病院受診・しばらく安静」
「動けないほどの脱力感に悩まされ1~2日は我が部屋に閉じこもり」
「転んでしまって脛脚or足首を打っては、何日かは痛みを辛抱していた」
「ちょっと風邪をひいてしまって熱を出したが2~3日で治まった」

そんなこんなの通常、どなたにも起こりうるアクシデントとの共存で、自立行動が可能な範疇でここまでを過ごしてきました。
とはいえ、前回のブログ投稿では、「真夜中の救急搬送の急病」が、ありましたが、基本的には、自立行動をとりながら、館内の守衛さんの協力・援助を頂くことになりましたが、そこが我がシニアマンションのシステムに助けられたということになる訳です。

3年間の生活環境の感想は?ということでは、自分自身の健康状態の維持管理は、大過なく過ごし得てきましたし、マンション内のシニア群コミュニケーションや、そこで働く事務業務や清掃業務や医務室の看護師さんの方々とのコミュニケーションは、きわめてスムーズで、問題や課題の早期発見・早期対応の在り方は、大きな問題になることは、いまだありません。
というわけで、この3年間、幸せ感の中で、高齢域の体力的な不都合を一つ一つ増やしながらも、楽しき我が家(我が身)を謳歌し得ているといえるでしょう。

親しき友・会えば気が合う友・イベント参加で趣味が合う語らい・共同空間での新聞を読みながらの世間ばなし、共有する時間はさまざまにあり、決して単調ではないリズムながら、高齢の私には、混乱を招かぬ不揃いなリズミカルさで自立度を高くして歩んでいるこの頃です。
左様な快適さの中で、私より20歳ほど若年の奥様(H夫人)と、お話しをする機会も多くあり、会えばにこやかに、賑やかにアレコレの話に火がついて、長話にもなる友(居住期間1年)ですが、最近、彼女がしみじみとこの1年を振り返り「ここで生きる今」を居住者の一人として、語ってくださいました。
彼女の許可を頂いて、以下の文面を啓上させていただきましたので、シニアマンション・エピソードとして、お読みいただければと思います。

私が初めてシニア住宅を知ったのは、現在87歳の父の介護を意識し始めたつい1年前(今から2年前)の時ですが、近くにシニアマンションが建ち“生活上大切な食事の試食”ができたので、食事を頂きました。
美味しくいただけたものの、それだけでは居住の良し悪しも解らず、「老人ホーム」のイメージのままでした。

その後、関東でのシニア施設に入られた、ご老人家族の挿話に目が留まり読んでみると、「親が入った施設に通っている間に、自分も気に入って、そこから仕事場に行くようになり、生活負担が改善された」という話を読み、とても驚きました。
なぜならば、「お金持ちの方しか入れない、と思い込んでいたから。そしてそのマンションの住所を確認すると某所ということで非常に納得し、思い込んでいた、老人マンションのイメージとは全く違う、新しいイメージに驚きつつ、これから高齢者の仲間になろうとするご夫婦での生活スタイルを、具体的に思い描くことができ、間もなく関西にできたシニアマンションの全体像を理解することができ、まだ働いている主人の会社近くにあるため、通いがってがよく、またマンション近くに住む高齢で一人暮らしの実父の家からの通いがっても良く、マンションには、好きな麻雀、温泉もあるということで、決定は迷うことなくできました。

それから1年。現シニアマンションでの生活の実際は、80代~90代の先輩の方々と一緒に、フラダンスや英会話などに参加し、朝にはラジオ体操も皆さんと一緒にするなどして、楽しんでいます。日中は、父のところや買い物に出かけ、午後からは、マンション内で行われている、ケア体操などをして、1日の終わりには、温泉に入り身体を温めます。

人前では、裸になることは、今でも多少抵抗がありますが、温泉に浸かっただけで、何もかもリセットされるようで気に入っています。あまりにも今の生活が楽しく、今月(6月)からは、館内のいろいろなイベントのお手伝いをすることにもなりました。

シニアマンションは、結構限りなく「自立」が基本ですし、実際、出費が嵩むことも事実ですが、館内職員の方々(事務職・清掃職・料理人・看護師etc)とのコミュニケーションは、普通のマンションよりフレンドリーで、24時間の見守りなど、ありがたく思います。転居して一番ありがたいのは、漠然とした生活から一変して、年齢を重ねても、次々とやりたいことが出てきて、計画も立てやすくなっていることです。メリハリのある日々を送ろうと、思えるようになりました。(H夫人談終)

 

以上、一住人の方の語りを文面に啓上させていただきましたが、今の世の中、結構何の頼りどころも儘ならぬ、少子高齢社会となり、経済の先細りは、やはり心配の種としては大きいです。
私自身、日々、我がマンションで生活しながら、多くの楽しき良き友人たちに癒され、助けられているのを感じているのですが、息子・親族・友人との往来は、其々が、たとえ遠くに離れていても、ここの皆さんは、何時でも心広くしていて、来なくとも寂しくなく、来ては尚うれしく、という気楽な日々を過ごし果せているように思われるのです。

コミュニケーションの難しさは、実際には多く、孤独な方もいらっしゃります。
けれど手の届くところに、最低限、有償無償の他者の手・声・笑顔・食があれば、自身の動きの弾みとなる、手がかりができるのではないかと、思うこのごろなのです。

「後期高齢の私」真夜中の救急搬送体験

上記の主題は、いかにも厳めしいのですが、何事やら!?興味津々に、ちょっとまあ?!とくとご覧いただきたいお話…私の真夜中の救急搬送体験!ということで、私の体調・何事異変?!に連なるWord=「救急車・救急隊員・我が眼差し」を、少し頑張って書いてみました。

事態は4月初日(April Fools’ Day)の真夜中の2時ごろ…。
我が身の惨事が起こったわけでして…なんとも情けない話。
2週間前くらいから、私は、首の付け根の不調を感じながら、いつものように引き起こされている症状故、これ以上進行しない様、多少の効果的と思われる対処(アイマスクを着用、首は高すぎず低すぎず安定する高さで支えられる様に枕を整え、不眠を招かぬ仰向けの安定した態勢)で、自然の眠りを誘い出すようにして寝たのですが、最近は、どうも体制が安定せず、不眠・頭痛に悩まされ、頸部筋(頚半棘筋~頭・頚板状筋~肩甲骨下の筋群)のツッパリ感は軽減するどころか、結構な痛みを伴い作動もままならぬ苦痛感が強いため、身体のぐったり感は、日増しに強くなってきていました。

後頭部から首筋にかけて、日中、立位だろうが座位だろうが、首が関節の定位置に定まらない不愉快さと、周辺の堪えきれぬ痛みが続くため、居住区すぐ近くにある病院(整形外科主治医)の受診に訪れたら「先生は、今日は診察日じゃないので、他の先生でもよいですか」!!素気無いお返事ではないか?と大いなる不快感があり、私は、素直に帰宅したのが罰当たりとなってしまいました。
(後日、主治医に話したら、そんな時は、僕に連絡をとってもらったら診るから)と、サラッと申し渡された次第ですが、診察を受けずに帰宅するは、首肩痛を解決できたわけではないと、我ながらの馬鹿さ加減に、悲しみと落ちつかぬ不安定な気分で、数日を過ごしました。

日増しに、キンキンに突っ張る頸部肩筋肉の痛みは、肩こり、両腕の痛怠(いただる)さ、痺れ感へと進化し、状態は深刻になってきて、寝起きするときの動作(首をもたげる、水平位置の枕に首を乗せる、体位変換時の左右横臥位~仰向きなど変換の負担が大きくなってきていたので、いよいよ明日は、整形外科受診と思っていた矢先の4月1日真夜中、横たえた体は身動きできず、少しでも動こうものなら、半端ない痛みに襲われ?私は「痛み」の囚われ人となって非情事態を招いてしまったのです。
身体の健康異常に警戒はしつつも、先手打つことを後手にして過ごした結果の「痛みの極感」に至らせ、「自身が招いた責任」と、ひたすら悔い改め、償いの時間となりました。

さて、そのようなわけで、4月1日の深夜、恐怖の「首筋~肩筋の猛烈な痛みと強ばり感」が出現し、我が身を対処できないのを観念し、枕もとのTELで、マンションの守衛さんに連絡を取り、守衛さんから救急車要請をしていただき、初めて救急隊の方々のお世話で、某病院に搬送されたのです。

私のマンションは、日常生活上の自立活動ができる高齢者を対象にしたシニアマンションですが、そこでの入所者の皆さんは其々、多少の健康上の不便を抱えていても、日常生活動作的には、相当に自立できているという前提で暮らしています。
しかしやはり、後期・前期高齢にかかわらず「救急搬送」という事態は、起こるべき時には起こっていて、その時は、全く人の手を借りないわけにはいかず、夜間は守衛さん、日中は医務室の看護師さんを通してその労を取っていただくなど、お世話になっています。

そして今回、私も初めて前述のようなアクシデントを引き起こし、マンションの守衛さんに連絡をとり、救急車搬送の対応が適ったというわけです。
無事、深夜の病院受診を果たし、必ずしも整形外科医ではなく内科医の先生でしたが、Dr.もNs.も、ぶっきらぼうではありながら、懇切丁寧に大きな声で、説明(医療の専門分野外で限界ある事を伝えられ、痛みに対する鎮痛薬処方をして、ここで直ぐ服用して20分ほど様子を見て、効果が出てくれば帰宅することにしましょう)と。
私は、鎮痛剤服用して10分もなく、酷い疼痛魔の退治が徐々に適してきたのを確認できたので、20分後にはタクシーを呼んでいただいて無事帰宅できたという次第でした。

さて、私自身の体験した夜間の救急車搬送による診療受診の経緯のあらましを、話してきましたが、深夜(夜間)の「救急車」搬送の実際(実情)について、ノンちゃんの目線で、お話ししておきたいと思います。

夜中の2時ごろ、守衛さんが手配してくださった救急車が、10分以内には到着し、ストレッチャーでお部屋まで迎えに来てくださいました。
直ちに、私の氏名・部屋番号を確認して、2人の隊員さんが、ストレッチャーを伴って部屋に到着するや、手早い操作と明快な言葉使い、私の氏名・年齢・性別確認、脈拍・私の意識状態も把握しながら、ストレッチャーに乗せるという手順よい手早さ、丁寧で安全・確実なアッという間の移動で、その時生じた揺れによる痛みは、文句を言う間もなく我慢出来たのだと思います。痛みの生じているときは、介助動作時の揺れや振動は、苦痛以外の何物でもない。
しかし有無を言わせぬ配慮が加わった手早さ、移動介助の手際よさには、実は恐れ入り、この身を任せざるを得ない威力と信頼性に、安心感が半端なく加わり、むしろ感謝でした。

患者さまに声掛けをする意義は大きく、緊急の中にもコミュニケーションの在処を示すアプローチが施されますが、そこには専門的なテクニカルの法則は、原理原則からの徹底した合理的で効率の良さを裏付けての作業テクニックなのでしょうか?作業手順の施行に、硬さや不自然さや不合理さはなく、3人の隊員さんたちのチームワークの力が、同化?融和?しているような活動が施されていたように思われ、安心しました。

救急車は走りながら、搬送先病院の受け入れ交渉を続けているのですが、整形外科領域の1~2?次救急レベルの病院を探すのに、何度も断られ、引受け病院が定まらず、一つ一つ消えていくという中で、私に対しては、限りある情報提供と妥協を図るべく情報提供を繰り返し行われながら、時に域外に出てしまいそうになれば、車を止めて再交渉を繰り返すなどしてくださりました。

私自身、今、死と直面しているわけではなく、原因不明の体力消耗が進んでいるわけでもない。
ある程度、明確な痛みの部位・症状が整形外科領域に特定できてはいても、科の専門医師が当直しているとは限らない病院に、交渉しなければならず、加えて患者の希望する病院は、必ずしも迎え入れてくれるとは限らない。

夜間診療・救急対応してくれる病院リストと、患者の居住区の地域性を考慮して、密室で狭い空間の車内で、交渉をし続けなければならず、如何にも不合理といえば不合理であり、かかりつけ医療機関と地域間連携をしていたとしても、搬送患者・家族が合意してくれるわけではないから、時間を要するのです。
むしろ2次・3次救急の対症ならば、ある程度、希望の搬送先を選んでいる場合ではないという緊急性において、有無を言わせぬ病院搬送優先で、患者側・搬送先の合意は得やすいのかもしれない。
この見解は、もしかして誤っているかもしれないが…今回私は、1次救急の搬送先交渉において、救急隊員さんたちのご苦労を、目の当たりに経験させていただきました。

私自身は、まったく救急隊員さんたちの活動のご苦労に、一定の理解をしていながらも、いざの状況になると、今回の経験の時のように、「そこの病院しかないですか?」の問い返しをしてしまっていたのだから、どんなものか確かではない。
できれば他の病院も当たってほしいとの要望をしてしまうのではないか?と思う次第です。
申し訳ないと思いながらも、知らない病院・評判のよくない病院のイメージを持っている場合、隊員さんには迷惑かけると思いながらも、自分の希望言葉を発せざるを得なかった心情があり、自己矛盾を感じてしまいました。

隊員さんたちの役割において、密室の救急車内で、瀕死の救急対応をされるあり方を想像できていながらも、いざ我が身がお世話になるとき、しかも軽症にもかかわらず痛みの酷さに耐えかねる時には、自己保身の労を強く要請してしまう心情に捉われてしまうと、なかなか自制できるものではないのかもしれない…と思って自省していますが……何ともいえないのかな?

今回、救急車内環境の狭き密室の空間・効率的で整頓された設備・実行手順など、救急車を運ばせながらの救命(救急)処置、絶えず観察と体調変化の感知、救急受診交渉および、成立しがたき更なる搬送交渉は深夜に於いて、限られた設備環境・条件の整備の連続、こうした任務のわずかな部分であったとしても、やりおおせなければならないという任務です。
身体活動は、静寂の要請と体力のフル回転の要請に冷静を持って応えなければいけないのですから、その大変さは、今回、具体的に見せていただき体験も致しました。
痛みの限界値を超え、治まりきれぬ身体の不都合を隊員さんたち3人の連携により、貴重な経験を過ごしました。救急隊員さんたちには改めて、感謝の気持ちをお伝えしたい心情にて、記述投稿いたしました次第です。

 

註(参考)*救急隊員は、24時間体制で待機し、119番が入るたびに、救急車で現場に急行します。
1日の大半は、救急車の中で患者の応急処置にあたっています。
近年、多く設置されているようになったAED(自動体外式除細動器)の使用方法を周知していることは、大切な仕事の一つです。

救急隊は、3人1組で動くのが基本で、うち一人は救命救急士でなければならない。

救急車の隊員になるには、消防士として勤務しながら、5年以上または2000時間以上の救急業務を経験し、さらに養成所で6か月以上の講習を受けることで、受験資格が得られる。

希望的な活力を生み出す「キャリアチェンジ」

2025年度には、人口の大きなボリュームゾーンを構成している『団塊の世代』は、75歳以上の後期高齢者となり、医療・介護ニーズが、急速に増大します。
当然病床や人材を迅速・柔軟に確保できるよう、平時や感染拡大時の「状況に応じた対応方針を定めなければならない」というのは自明の事です。

地域における訪問看護の需要の増大に対応するには、訪問看護に従事する看護職員の確保が必要になり、在宅介護の需要の増大も伴なってくるわけです。

こうした状況の到来は、既に2000年初期に、2025年の人口動態に於いて
「超高齢社会、労働人口の減少」
が予測されており、危機感への認識が高まり、高齢社会の医療・介護体制の地域を包括する循環体制を整え、その充実化を進めていましたが、現実は、予想以上の速度で、超高齢社会・労働人口の減少・少子化(出生率の低下)が現実にやってきたわけです。
ある意味、この状況は予測されてしかるべきではあったはずで、既に現在、在宅系の看護師・介護職が不足している状況で、今後もさらに人材が必要とされるフィールドになっているのです。
殊に出生率の低下は、無策が招いた結果としての現状があると言っても過言ではないように思われます。

Indeed Japan株式会社は、25歳~49歳の正規雇用の転職経験者(現在就業中の正社員、会社経営者、会社役員、公務員、団体職員)の男女計8,399名を対象に、「未経験転職に関する調査」を実施し、現状の動向・問題点を発表されており、労働市場における人材不足を背景に、企業の未経験人材の求人や異業種・業界への転職が増加していることも示唆されています。

新たな仕事へのチャレンジやスキルの取得によって、キャリアの可能性を広げたいと考える人にとって有効な調査結果と思われ、未経験転職はひとつの選択肢となり得ていくのですね。

その様な社会の成り行き(変遷の動向)を積極的に認識するならば、異業種・業界への転職=(わが社のような)医療・看護・介護系の専門職へのチャレンジや、スキルの取得により、キャリアの可能性を広げてくることも大きく可能性は高いと希望を持つ次第です。
良き展望ではありますが、危機の中の展望の安定性は、やはり若年の労働者人口・高齢層の労働人口の増加を図ることに罹ってくるわけで、早期の突破口を創りだして対応していかなければならないのだと思います。

調査結果の要約をするならば、未経験転職の割合は、転職経験者の半数以上(54.3%)が未経験転職をしたことがある。
そのうち6割以上(61.3%)が「業種も職種も未経験」の転職をしたという事です。

未経験転職をした理由は、1位「給与を上げる」(25.8%)、2位「現状の業種・職種に不満」(22.5%)、3位「やりがい」(21.4%)や5位「新たな自分の可能性」「新しいことにチャレンジ」(ともに20.4%)という結果でした。

未経験転職の満足度においては、未経験転職をして「良かったと思う」人は61.4%、「悪かったと思う」人は全体で4.4%。
初めて未経験転職をした満足度は、年齢に関わらず高い傾向にあるといえます。
未経験転職を果たした人の「未経験転職」に対するイメージは、1位「新たな経験やスキルを積むことができる」(79.0%)、2位「新たな仕事やキャリアに挑戦できる⇒キャリアチェンジが実現できる」(77.4%)であり、35歳以上ではじめて未経験転職した人では「可能性の広がる転職である」が最多で8割以上(83.9%)という結果で、好感度が高いです。

未経験転職する人へのアドバイスとして、1位「年収や待遇などがどのくらい変わるのか確認しておく」(35.1%)、2位「自分のキャリアを振り返り、未経験でも活かせる強みを明確にしておく」(26.9%)、3位「無計画ではなく、先のキャリアを見越して未経験転職をしておく」(26.5%)という適切なアドバイスが発表されており、興味を持った次第です。

この事より学ぶべき見解は、人材紹介会社として転職希望者が、キャリアチェンジを望んでいなくても、面接時の特性から、気づいていないキャリアチェンジの特性情報を提供することが、大事な社会の活性化を図る一手ではないかと思われ、元気の出る社会情報であり、お互いの支え合いの情報提供が大事になって来ると思います。

このブログをお読み下さった皆さんが、何らかの形で刺激を受け、未来の自己像に思いを馳せる時、アイディアを浮かばせてみて下さい。
他人事ではない社会問題として、ご意見などフィードバックしてみるのもまた、楽しいことではないでしょうか?

皆様其々の2024年度がスタート!! 祈念することは何でしょう?!

令和6年(2024年)1月1日16時6分、石川県能登地方に震度5強の地震発生!

寝転んでTVを気楽に見ていた私は、ぎしぎし音と揺れを体感し、視覚に於いても我が家の室内は、明らかに横揺れ・重なりくる揺れの様相は、地震を認知し一種の恐怖感をもって直ぐに起き上がり、次に如何なる体勢でこの地震の流れを受け入れようか、不明快なまま、とにかく床に体を四つん這いに構え、如何なる地震にも即応できると思しき構えの体制をとって、ジッと地震の成り行きを、見届けていたと思う。

何しろ部屋では独り、親しき人影は何もなし。玄関の外にも人声のしない不備なる地震発生時の状況は、瞬時恐怖感を覚えたものです。

地震の震度が大きくなっていくのか?
これで収束していくのか?
息を凝らして、眼を凝らして頭を集中させるという3段の構えで、「如何様な地震の震度や揺れにこの身を守らなくっちゃ」という真剣な構えを真面目に整えて、様子を伺おうとした瞬間、TV速報に切り替わり、警報周知となって、ある程度、安心の構えに。
ちなみに、この時の石川能登半島で起きた地震規模は、震源の深さ:ごく浅い、規模:マグニチュード7.6という地震の概要だったようで、大阪市では震度4の影響。

これは、最近の地震の経験値としては、はっきりと身体感覚で相当大きな地震が捉えられ、TV速報が流れつづけていたので、独りよがりな恐怖心も湧くようなことなく冷静に状況を、受け止めていったように思います。
ところが、それ程間をおかず、津波発生情報が流れ、能登半島を中心にした日本海海岸の映像が映し出されると、その最初から目の当たりに見る海岸は、非情に不気味な「海のうねり」というか奢るなかれ、地震規模からして今から起こる海の不気味な静けさ?
白く波立つ巻き返しエネルギーの執拗さという表現が正しいのか?どうなのか解らないけれど、しきりに予告される白波の遠近感は、この期にジ~ンと不気味に迫ってくるあの映像は、身の引き締まる恐怖感が湧いてきたように思います。

地震規模・速報は、タイムリーにあちらこちらに能登半島全体が、地震の悲惨にさらされている様子を伝えるが、映像が無ければ、想像に難い。
翌日になって地震津波に侵食された光景は、言葉に尽くせず頭を垂れて立ちつくすばかり。

令和6年の始まりは、このような災難に遭遇して始まりました。
それぞれに個々人の方々が、遭遇し抱かれた思いは、多岐にあると思います。
TVのできる限りのタイムリーな映像から、その時に何をしないといけないのか?
どんなことをすべきなのか?

被災地に居る方々の悲惨な映像を負いつつ、ある意味、悲しみを共にし、良き結果を皆で喜び、経過措置に希望を失わず共有して応援し、支え合う温もりの距離感を実感し合う等、私は今回のリアルなマスコミの方々の取材力に、感謝申し上げたいと思っています。

現場には立ち会え切れないために、被害の大きさに対して、想像力が働かず、あるいは想像力の不足を補ってくれ、何をどんなことをする必要があるのかを、しっかり伝えて下さったように思います。

令和6年の始まりは、この地震・津波災害速報から始まりましたが、悲嘆にくれるのでは無く、学びの宝庫を得て、これからの弛みなく力強い前進の力を、国民全体に蓄えてくれたように思っています。

その様に祈り感謝して、新しき年の始まりのご挨拶とさせていただきます。

今年もまた、ワークステーション・メディカル事業部内で発信しております、ホームページや社員ブログを こよなく愛してお読みいただきながら、皆様と共に邁進してまいりたいと思います。

否!町(街)の中で熊さんと出会う!?今年の悲愴

昔(10代~2~30代初期の頃)は、「中学校生になれば、自主的に映画を見ることが許された」という時代でしたが、私は、経済的な制約もあり、映画への興味も薄く、積極的に見るほうではなかったが、母が、私を映画に誘って連れて行ってくれましたね。
そういう事もあって、年2~3回観る映画は、優しい少女系(いまでいうディズニーもの)が多かったなぁと思い返すのですが、時代背景的には、明治~昭和初期の物語。
村人の大人達が熊と向き合う視点が、凄まじい惨忍なシーン、毎年毎年、秋頃になると、同じ熊がやってきて、村の緊張が高まるという通説の背景の中で、映画の物語が繰り広げられたのでしょう。
実際、その時代の映画やTVで観た映像といっても、ほんの2~3本であろうし、また、きっとストーリーも、事件性のある衝撃度は、映像によって壮絶で衝撃的なシーンとしては、現実的な物語の素材として、恐怖感をあおるシーンではあっても、嫌悪感にはならない映画鑑賞の効果性は高くあったのだと思います。
私の脳裏には2回ほど見た別々の映画でのシーンですが、その頃の時代、熊の生態について、詳細には解明されていなかったのでしょう。
熊の生々しい闘争的で逃走的な表現は、どの映画も似ていたような気がしていて、大方詳細な記憶は残っていないにしろ、思い出せば、ひどい頭痛に見舞われる。
もしかして、映画に感化されてしまって、手出しのできない、受けつけることのできない「くま」像が出来上がり、「クマ」という音声を聞いただけで、身体が硬直するという素早い反応が、癖になっていたのかも?

であったにせよ、「森のくまさん」の歌を聞けば、振り付けまでして、可愛い熊さんを体現した可愛いダンスを踊っていた私は、ほっこり熊さんのポーズ10体くらいは、色鉛筆画で描いたりして楽しんでもきたのですけどね。

年齢を加え後期高齢者になった6~7年ほど前、従弟夫婦と3人で、高槻市にあるポンポン山に登った時、その登り口から既に「クマ出没に注意!!」の看板が、10mおきに掛けられていて、山中、かなり緊張しながらの登山。
こんな山でこんな看板ってどうなのよ~!?
白む気持ちに支配されないよう、殊更大きな声で話しながら山深く登っていきましたが、山頂で良き景色を眺め、ゆっくり弁当を食べて、何事もなく無事に下山し終えたのを思い出します。

が、それから間もなく、ここ2~3年は、クマ被害のニュースが多くなってきたので、急にまた、何故これほどに多くの熊が里山・街中に下りてくるのか?
熊による被害は多くなり、今年は特に多く報じられています。
痛ましく背筋がぞっとするニュースが多く放映されているのですが、この現実、こんなに悲惨で多くのクマ被害をどう受け止めればよいのだろうか?
と、この頃は、恐れをなす一方で、私は、他人事のような温度感でもって眺めているのですかね?(酷いですね)。

 

丁度、ラインニュースより、愛すべき熊の生態に関して、著述家・亀山陽司氏の著述を拾い読みしましたので、熊の特性情報を要約して以下にまとめてみました。

日本の熊の種類は、ツキノワグマ(本州以南に生息)と、ヒグマ(北海道に生息)の2種類で、ヒグマの方がツキノワグマより狂暴だという事です。
本来、熊は、動物を襲う事は多くなく、主食は野菜・木の実(蕗、桜の実、トウモロコシ)・昆虫であり、熊は基本的に警戒心が強く、他人に近寄ってくることは殆どないのです。
造林地のように、隠れる場所もなく、見晴らしの良い所であれば、熊は近寄らないのです。
(そういえば、高槻のポンポン山は造林のようでもあり何となく見通しのよいすっきりして雑木林だったかな?大袈裟に恐れることでもなかったのかな?)
しかし、ヒグマの危険性を侮ってはならず、不意に山道で出会い、ヒグマを驚かせてしまうと、襲われる可能性は高い。
そして、ヒグマの糞は大きく、他の野生動物とは段違いなので、熊の糞であることが直ぐ解り、糞を見れば、何を食べたのかも大方解るということです。
(最近の一連の熊捕獲のニュースにも、糞から人の肉片や頭蓋骨片が見つかったというのを聞いたことがあるように思います)

さて、こうも熊との遭遇件数や、残酷な被害が多くなったのか?

それは、山の中で十分な食糧が得られないから!!これが最近の山事情。
今の時代、これだけ山林が無味乾燥な住宅地に、開拓造成されたら、山菜・木の実のなりようがない。
木の実で熊の腹を膨らまそうとすれば、大量の数が必要で、特に秋口は冬眠に備えて蓄えなければならない。
(どれだけたくさんの食糧が必要か?想像しにくいが、そういえば、パンダは新鮮な竹の葉をしょっちゅう食べているけれど、あの竹笹にも色々な種類があって、パンダの好みも微妙に違っているようです。しかしあれだけしょっちゅう食べていれば、相当な量を運ばなければいけないようですから、毎日の竹笹が十二分にないと、多くのパンダは飼えないという事情があるようです)

少しばかりの熊情報を書き込んでみましたが、熊を恐れることなく+熊情報を得て具えてみるのも悪くないかな?

絵本の中の熊さんへの親近感 対 野性の熊を見た瞬間の警戒感、襲われた時の恐怖感は、相容れない感覚ではあるけれど、山郷に暮らす人々の「熊」への理解というか、共生意識は、優しくて厳しい眼差しがあるように思います。
山郷の季節季節の産物の様子を伺いながら、限りなく熊への愛情を注がれているように見受けます。
いつか、人間と野生の熊さんの共存共生しあえる(というか住分けて共存するという)環境が出来上がっていくのではないか?との期待感は、ものすごくあります。

私達が、無下に恐怖感に縛られて逃れ無き環境からの打破に、信頼と理解をもって生命を営む日がやって来ればと願っています。