サグラダファミリア建設!! 着工144年を超えて収束間近!!

「サグラダ・ファミリア建設作業が、間もなく収束と」のTVニュースや新聞記事が目に留まり眺め入る。

素直に、「えっ?そうなんだ!!へ~!?何だかな~!?」との思いは、直感的には一歩引いた感じを持ってしまったか?
畏敬の心情は持ち合わせていなくて、そこまで引き継がれる完成への思いは何なのだろうか?
と思ったかどうか定かではないが、感動的な喜びの共有は不確かで、その場を通り過ごしている。

世界のクリスチャンにとっては、神聖なる世界の大いなる喜びの事象であるに違いない。
完成形の工程が解らない、長年に渡る引き継がれゆく多くの才たる建築挑戦者たちは、祈りの象徴である父ヨハネ・母マリア・子イエスの「聖なる家族」の塔の完成へ、どのような思いを以って継続を受け繋ぎながら、ここまでの本質的(ガウディの思い)な完成度を繋ぎ、完璧な完成への引継ぎに挑戦してきたのだろうか?!

あと僅かの作業工程を残したところで、「まもなく完成する」という表明が、2026年6月10日のニュースで発表されたのである。
「主塔イエスの塔がこの日に完成し、教会全体は概ね10年前後で完了見込」との情報発表は、世界中に繰り返し伝えられたようで、着工者のガウディの没後100年の命日の日は、既に着工期間144年
全体の完成は、あと10年位という状況にまでこぎつけてきているとのニュース。

主塔(イエスの塔:172.5m=世界一高い)が完成した2026年6月10日(日本時間11日未明)に完成の記念ミサが執り行われ、その映像が全世界に公開されたので、皆様は既にご存じかと思います。
記念ミサ式典が厳かに行われ、人々の静かな信頼と安寧と希望への願いを込めて行われたこのシーン。

こうして、荘厳な静けさと畏敬に満ちた記念ミサの当日は、着工者のガウディ没後100年の命日の日であり、着工期間144年もの間、その建設作業に係わった人々の脅威な信念の基に、受け継がれ引き継がれてきた歴史連なる日々を思うと、圧巻さが頭の上に降りてくる。
神のご加護有る事を信じて、難解なサグラダファミリアの正解設計に迫る
「解答なき正解答」
を見出さねばならない作業工程を辿るのであり、意地悪く?建設設計図を解答(提示)せずに、後世に残していったガウディの過激(意地悪)な心根たるや、痛烈な皮肉屋さんらしい(詳細には、私は知らんけど…)

報道でしか知らないが、ガウディの後を繋ぎ来た144年間の挑戦者の犠牲(ご奉仕)は、今はまだ、詳細に知る由もないが、挑戦者は、難解な設計の解き明かしに苦労し、時間を尽くした挙句の挫折感にも苛まれながら(も)、携わってきたということらしい。

私が、TVニュースや新聞で知得た俄か知識であるので「お粗末さ」を承知しているけれど、ガウディが取組み、そこまでの犠牲?執念?を押して完成させようとした「突き動かしの魂」とは?
如何なる魅力に引き寄せられて挑戦したのだろうか?と私は、不思議と世界の深層心理を思うものの「創造」への想像は逞しく描けない。
今後のニュースや“サグラダファミリア関連書籍”の発売において知るしかないと思う。

まだまだ、難解な設計に挑戦し続けながら、全体の完成目標は10年ぐらいを予測されているが、最終段階に入っている今、かつてガウディは、この世界一高い塔を建設するにおいて「登るためにあるのではない」と申されたという話は、彼の意図する「理想の教会・キリスト教の社会」の理想郷をイメージされているのでしょうか?
3つの塔は、夫々「イエスキリスト」と「父ヨセフ」と「母マリア」の聖なる館という創造物であり、建築の発想は、ガウディの解答示さぬ意地悪なパネル合わせ作業。
目指した理想の教会(社会建設)は、理解を超えてまだまだ難度の高い作業の完成が、直ぐそこまでやってきている。

ガウディは、墓場でほくそ笑んでいるかもしれない。

ガウディの「イエスのファミリア」発想の始まりが、膨大で難解すぎて普通ではない。
ガウディの宗教「キリスト教信仰」が基ゆえに、この膨大な発想があるのであろうけれど、私は全く何も知らない。
ただただ驚きのままに、本文をつらつら書きこんできましたが、早い時期に資料本が世に出てくることを楽しみにしながら、この文章を閉じることにいたします。
皆様は、如何な感想・ご意見をお持ちでしょうか?

「草花を摘む散歩考」の今は昔な感慨

時々の散歩は、ほとんど一人散歩しているけれど、時には隣人(室)のお婆ちゃまとの二人散歩あり、また本日は雨天にて散歩中止!の不穏不機嫌になる時もある。
とはいえ、雨降る日は散歩しないと決め込んでいるのであるが、これは単に、ぬかるむ土は運動靴を汚し、足元は土に絡まれて不安定な足取りになり、こけ易くなっており“危ない“感が頭中に付きまとっていて、不安定な歩行になってしまう。
大袈裟なようでもあるけれど、転ぶのが一番怖い!

高齢者の転倒は起こりやすく、転倒すれば、悪しく骨折に繫がりやすい。

この町(わが町)は、大部分の田んぼが宅地化され、あれよあれよという間の5年間に、住宅街、大なり小なりのマンション群の町並みとなり、華やかで大きなショッピングセンターなども併設されていったものの、こじんまりした飲食店や、こ洒落た店などは、昔からその町にあるその町風景のままに、古びて立ち並んでおり、昔馴染みな地味さで、知る人ぞ知るなじみの客の行き交いが夜になると多く、昼間の活気は無いように思われる。とはいえ、幹線道路に面しての左右の店構えは、今までのようにありのままの営業スタイルで、なじみ客の夜の賑わいに支えられているのでしょう。

ある程度の町全体の開拓計画のもとで、田んぼが売り払われ、戸建て住宅の区画もあれば、マンション建の区画も入りまじりして、田んぼの整理が続いている。
ただ開発されてゆく変貌の素早さは見事というほかなく、新たな風景に見入って受け入れていくしかなく、全風景はどうだったかの記憶は、一瞬にして思い返すことが難しい程に、よく整備されていくものだと感心しているが、ふいっと 記憶消失の速さに、何かしら不思議な(と言えばいいのか…一抹のさびしい余韻が漂う、こんなことでよいのか?このあっけなさで、即、以前の旧き町並みの記憶は、簡単に抹消されてしまう)こんな感傷の思いになってくる。

あの路から行ってみよう。
この道を抜けてみよう。
昔、庄屋さんであったのだろう立派なお屋敷の門構えや、瓦屋根の重鎮に重なり合うお屋敷や、門構えといい、玄関口の扉が開いているときなどは、そこから続く玄関への道造りといい、広大な深みのある庭に林立する古木や花道は、素晴らしく落ちついて風情が漂う。

また、わずかに隙間のある塀から見える季節の花々は、さすがに何年も何年も繰り返し咲かせているのであろう、堂々とした茂りの中で咲いている花が、珍しい種の花でもあるからには、つい覗き込んでしまう。

「私達、物騒な人間ではないよね」しばし見入りながらゆるゆる歩けば、庭の主の方に、時には(ホントにめったに出会わないが)庭越しにお目にかかる。
思い切って「こんにちわ~。すみません!お庭見せて頂いてます~!お綺麗にお手入れされているんですね~」の勇気あるご挨拶の声掛けするチャンスが、少しずつ消えてゆく様は、街のコミュニケーションをしあえる幅までも狭くなり、むしろ途絶えてきているのを感じるこの頃は、感傷的に感慨を持つものでは無いけれど、味気ない散歩になりつつあるように思うこの頃ですね。

皆様、季節は”夏場“へと相成りました!!

6月の初夏の頃となり、夏場の温度感が、既に真夏のごとき蒸し暑さが身体にまとわりつくようになり、否応なく蒸し暑さが寄ってくるという感じは、待ったなしの真夏の季節というわけです。

いきなり不躾な書き出しですが、5月に入るや各新聞欄やTVニュースで
“今年は猛暑”
“熱中症予防”
“早めの熱中症対策”
などの特集が出されてきました。

私の感度は、既に“夏季たる”怯えが最高潮、とにかく夏場のこの暑さは、毎年
「やり切れぬ日本の夏」と嫌悪感をまき散らすほど?狭量な感覚を言い放つ!という狂気沙汰になりますね?

幼少期の頃を思いかえせば、確かに夏は暑く裸同然の薄着ではしゃぎまわり、アイスキャンディーやかき氷は、朝な夕なに“待ってました!THEおやつ!”でした。
甘い氷菓子の妙味は、涼を取る以上に、おいしく甘いカリカリシャリシャリ感の心地よさが堪らないおやつで、勢いよく食べれば目玉周辺が痛くなりながら、ひと時を我慢して食べきっていく快感さに、とにかく無謀な勢いがあったな!と。

思えば、暑苦しさに蒸せてしまう感覚は、殊更感じるものでは無かったように思われるが、長じるにしたがって、夏場の暑さは苦手意識に支配され、蒸し暑い中で動くことの鬱陶しさに、ごろ寝、おっくうがりを決め込み、動こうとしない子供に成長していったような気がしていて小恥ずかしい思いになる。

今の子供たちを見ると四季折々を素直に受け入れて、穏やかに楽しく、時には精一杯はしゃぎながら、夏過ぎて冬場へと順調に、季節の流れを淡々と受け入れて過ごしているように思われ、幸せな時間なのだろうなと羨ましく、もったいなく時間を見過ごしていたと悔やみ節も出てくる。

しかしまあ、既に後期高齢を生きているのですから、時間を無駄にしないで、楽しく!愉快に!創り出していく事が大切なのであって、好きなればアイスキャンデーをカリカリと食べればよし、口にしたきものを遠慮せず食べればよし。

それでこそ、老齢のくったげなき毎日を“make happy”に夏場を楽しめましょうぞ!!

日常の生活環境:健康への誘いを見つめなおしてみれば…。

桜の花は咲いてこそ!の見ごろは4月初め~中旬のころ。
つぼみが芽吹き始めたかと思いきや愛でる(芽でる愛しみ)も儘ならぬ間に、パッと咲き始め瞬く満開の光景は、4月は雨期なる天候に見舞われることも多く、花見の機会を失ってしまう。

桜の花が散り始めれば、密かに芽生えの時を待っていましたとばかりに、桜葉が芽吹いてくるというこの幕間の間隔は絶妙だなと、いつも思い笑えてくる。
独りニヤついてしまうのも可笑しなものだが、人目を気にすることなく独り歩きを楽しんでみる。
独歩の脚運びは、健脚運動を気にかけていて、のらりくらりではなくリズミカルに歩けば、気分も上昇する。

桜シャワーの通り抜けする春季節は、ここ4年間、気分の良い時間の恩恵に感謝している。
4月のどんより感は全身が怠惰になり、睡眠にも影響が出てくるが、ここ岸辺の桜の開花時は、鬱陶しさから解き放たれているようで、ご機嫌度は上昇!頭痛のない睡眠が得られる有難い季節との思いがある。

4月の草花の芽吹き時、身近な散策であれ遠出であれ、花見探訪は、何はともあれ陽気なお出かけ気分が湧き上がるもので、子供~老年の方までもの多くの人々の陽気を誘い出してくれる季節であり、自然の狂いなき営みに、素直に感謝な気持ちが湧き命の再生が有る様に感じているのです。

集合体住居が多くなっている町中には、一定の生活時間を共同する幼稚園や学校・街中の企業が、保健室や医務室を設置しており、また最近は、集合型生活共同体住宅に医務室の設置などが充足されてきており、人々の健康をサポートする体制の充実が進んできているように思いますよね。

これは、通常の医療機関としての役割を担っているわけではなく、近年、健康上のサポート環境が充実してきており、多く人々の健康が守られる環境が整ってきたという事で、良き生活協同環境が充実してきているのを感じるこの頃、生命力の充実度が増していく環境作りと認識していて、そのような街中の、或いは職場環境の整備が充実してくれば、そこに住まい、或いは働く人々の健全な生命の延長に繫がり健康観が高められていくという有難い環境作りが進められているように思います。

健康産業も増えてきており、お金のかかる健康志向な環境への期待度を安直に述べるつもりはありませんが、確かに健康生活への環境作りの進化は著しいと思うのですね。

こうした思考の流れに、居住区の健康作り環境に関心を持ち、継続して参加をしてみて、きちんと住みあう「人々への関心を高めあい」ながら、活路を再生させていければ、健康環境はより発展的に成長していくのかな?そんな思いで今回の投稿をまとめてみた次第です。

良くも悪しくも「働き方の変遷」は常にあり…では?!

春の風の優しさは、桜の開花の始まりと共に、頬を撫で過ぎてゆく心地よさにおいて感じさせられる。

風の寒さは「春とは名のみ」の歌の文句を思い出させてくれる。
おっとり風まかせに出してみる声には、力強さは無く、震える声色は、半音ほど上にずれているようでもあるが、歳歪我関せず我が心の歌の響きへの埋没感は、この上ない幸せ感に浸ることができ、当に“make happy!!”誰に聞かせるでもない我が内からの声が、こうも美しく慎ましやかに出てくれるものか?!と思えるのが うれしい。

ところで、第一波コロナ感染が2019年12月に発生したのを受けて、2023年5月までの5年間の期間、流行したのであるが、この間にあっさり(?)と、世の中の働き方・仕組みが変わってしまった!の話である。

日常生活上の問題・大変さはあったにせよ、2~3年前頃のコロナ感染勃発以降の現象として、世の中、働き方の在り方が変わってしまった(というくらい社会の働き方の様変わりは、結構割り切って合理的な体制に切り替わり、その後も維持されている職場が多いように聞く)が、その様変わりは定着してきている様で、変遷の仕方があっさりしとして、社会的な労働問題に発展しないままに、既にシレッと当たり前に変容している。
(良きことなのか?再考すべき問題はないのか?

労働条件的には、そこそこの順応性に応じて乗り切っていけたという感は、確かにそのように社会的一体感?同調感?があり、多少の他社(他者)との不平等な違いがあったにせよ、何とか切り抜けてこられたのであり、社会的労働問題として闘争に発展せず、社会は穏やかに、働き方の変化にすぎ越していけたのが、有難く思われる(私感)。

勿論、感染の流行に係わる方々(感染者とその家族や感染者発生に伴う実務対応など、“しなければならない・せざるを得ない”避けられぬ危険な役割対応を、せざるを得なかった方々には、今尚、深い感謝と畏敬の念をもっており、社会的な学びとして記憶しておかないといけないと思っているのです。

そして、その間に変遷・編成された、働き方の組み換え、働き方の変更、働いていた組織からの脱却と新職場への挑戦(?)等々、深刻で暇をおけない変容があったかとは思いますが、コロナ流行の終焉と共に、穏やかな社会的回復と働き方の変容があったように思われ(私の浅はかな発信であれば、お詫び申し上げます)
その後の立ち直りが、素早くて、社会的な変容の形を受け入れた継続性をもって、瞬く間に復活したように、受け止めているのですが…。

今の現状(感染症流行からの社会的な復興)を見ながら、つくづく思いだしているところですが、春先~のこれから、アレルギー症状が特発しはじめる時、コロナ感染症・インフルエンザは、不気味に流行っているようでもあり、気を付けて生活を律していかないといけないと思います。皆様、お気をつけて過ごされますよう お祈りしております。

シニアマンションでの日常生活の支えなるもの

異業種人材が支える現場…云々が論じられ始めていたかと思うと、既に現場は、この人材不足の物理的限界を超えて、従来のサービス提供はおろか、社会インフラの維持が困難な状態である。…という新聞記事を読んでみるのですが…

私自身、「日常生活上の経済への危機意識・関心」を持っているとは言い難く、毎朝、新聞に挟み込まれてくるわが町の食品広告紙を読んでいるのでもなく、なんだか日々ええ加減に生き流されているという生活態度ではなかろうか?

このような横着にも程がある生活態度は、年過ぎ行くままに認知度の衰えも進行しやすいであろう(行く末不穏な話だね。怖いな!自己責任だわね)

日本経済社会の実態が、どこにどのような流通に影響しているのか、不都合な流れを自己防衛力で差し止められる力量は必要ではないか!
新たな流れの道筋を遅まきながら、計画的に手早く打って出る手立ては、今からでも遅くはないよな!どうすれば良いのか??

私自身は、自慢じゃないが、見極めつけられない経済音痴の持ち主。
この欠点を長らくの間、改善することなく(目覚めることなしに)今日までを過ごしてきてしまったようで、悔いは大きく残念至極なり!
脳活力への影響が大きすぎる!なので現在、後悔感、覚醒中!

5年前に、自立機能型のシニアマンションに移り住み、逞しく生活力を持ったシニア世帯の皆さんの脳活炸裂する食品経済への関心度の高さに驚き、しばし朝の4~5~6人が集い、新聞広告を中心にした市場談義が展開される集いに、お仲間入りをさせて戴くようになり、世の中の経済動向・ご近所の市場マーケット情報=新鮮生魚の安価販売情報、同一製品の安価情報、お買い得品情報、お店の特売お得解析等々、この学びの道程は、未だ実感的に理解ができてはいない。

ただひたすら、聞き流しの日々を過ごしながらも、耳学問の効果はあり、安価で購入できる又はお得商品など、具体的な食材を1品でも2品でも買い付けてみることにはしている。

但し、食品戸棚・冷蔵庫には何が必要か、大きめの長持ち食品は買わない、日常生活上、安価で安心できる保存食品、便利な日用品を安直に買わない、生活者一人分(私)の経済的な買い方・料理の仕方・保存方法等々の情報を実践的に学べていて面白くなってきているから、確実に脳は働いていると思っています(有難きこと)

私自身、マンションでのシニア小集団の会話の中に入れるチャンスは、今のところあまりないけれど、それなりに社会を生きてきた老男女たちの、逞しき朝の雑談風景があり、午後のケア体操でのにぎわい場所があるのだなと、環境のありがたさを思う日々です。

 

シニアマンション 日々声高く・時々澱みあり

シニア世代の声変わりは、60歳前後あたりから声太で逞しく、或いはか細く声変わりしたり、多くは水分の足りないかすれ声になったりなどしているが、要するに声が出ににくくなってくる。

発する声が喉に引っかかると言った方がいいのかな?
そんな時、咳を伴わせながら発声したりするけれど、声は出てこず、水分不足による声帯粘膜の干からびを感じては、周辺の唾を搾り取る様な仕草で水分を引き寄せてみるが、それはもう無理至難の業!
周辺の水分不足状態と咽頭筋の衰えにて、敢え無く補水して声繋の対応をする。
高齢への道中の衰えを尚更感じ入り、これはもう悲哀だなと呻く話であるなと思うこの頃です。

加齢に伴う老化現象と心得はするものの、飲食物の通りにくさ、声を出すときの乾いた声帯のかすれ声、重々に筋肉の衰えは、確実に声帯周辺の機能低下を引き起こしている。

何しろ、口腔内の水分不足=唾液が十分に出てこず口腔内のうるおいが低下し、粘膜が干からびやすい状態になる=となれば、音(声)変わりは著しく、かすれ声・ガラガラ声の伴いは、逞しく歴然としており、“人が生きてきた証の声!”と感心する。

ついでに申し訳ないながら、腹立ち苛立ちを覚えるのは、どんなに口腔・喉を潤して、食事を始めても“おいしい食事”の感動は少なくなってきているのは確か!
甘すぎる・薄すぎて何の味もしない・硬くて口の粘膜が傷つくとか、柔らかすぎて何の噛み応えがないとの嘆き節を耳にしたり、私自身、味の不味さに嘆き節を呟く。

何故か呼吸の調整をしてみたり、思わず喉元の唾を飲み込んでみたり、呑み込めない唾の粘りを無理に落とし込もうとしたりなど、そばにいる者は、思わず不随意に嚥下運動を誘発されてしまう事もあったりして、お互い噴出して笑ってしまう事もある。

また、干からびた喉元を潤いたくなれば、咳までも誘発されそうになり…自分自身の呼吸・声だし(声帯の干からび・喉の渇きを意識して)思わず喉元をゴックンとさせても、唾液の流れが伴わず飲み水を補給している…。
こうした具合は、70歳高齢となってくれば、身体の老化現象として自覚を持つようになってくるものだ。

因みに、喉の筋肉(喉頭筋)について調べれば、声帯の周りの筋肉は「声を出すために重要な筋肉群」で、主に4つに分類される。 悪い声になる原因は、

声帯の筋肉のバランスの不均衡、喉の過度な緊張でキンキンした不快な声になりやすい。
息の量が多すぎで、息を吐き過ぎると声帯コントロールが難しくなり、苦しい声になりやすい
という事で、私自身、高齢になるに従って(70代初頃?)喉元での唾液の引っかかり、咳き込みが多くなり、敢え無く喉元の筋肉群の衰えを感じてきたものです。

声は根太くなり、3年ほど前から声帯を鍛え、喉筋群を強くしたいと思い、発声力をつけて声帯付近・喉元の筋群の強化を始め、継続しているところです。
(今のところ、発声はとても良く響く声を出せる様になりました)

ところで、当マンションの温泉浴場(風呂場)に行けば、声の響きが潤いを帯び、風呂仲間さんたちと共鳴し合うこの心地よさ。
日中の暮らしの中では、心地悪さの声の行き交いが騒然として喧しく、不快な思いをするものだが、浴場では、個々人には我が身の声は、自覚することなく、どうやら開放的になって制御感が薄くなっているようで、話の滑りの心地良さに酔い痴れているらしくもある。
俄かに盛り上がる轟きには留めようもない。
しかも、声高のエネルギーは逞しく伝わってきて、誘われそうになるときもあり、ここはもう、私も早くそそくさと動作を早めてお風呂場を引き上げてくる。

高齢者同士の会話は、お風呂で一層盛り上がるものの、それはそれで場所をわきまえての騒音会話と笑いのミックスで、大きく許される「ふれあい会話道場」とでもいうべき状況!
お腹の底から忌憚なく出す声は、腹太で解放された忌憚のない罪なき声として、許されても良いと思う。
話に身が入れば、活気づくのだろうが、華やかなる浴場外交と思えば、それも在りなん(何?・難?)とね。

そして、声帯の揉みほぐしの効あり、声力は若返り、しわがれ声からの解放は知らぬ間の光明ではないだろうか?
如何にも高齢者の為せる生き技と思えば、なんてことなく良き風呂タイム!と思い流せる話ではないでしょうか?

日中の喧騒・波長の合わぬ声高問答となると、館内の様相はちょっと変わってくるような騒動になるのではないかしら?と心配になる。
けれど、一日の生業を終えて、ゆるりと温泉浴室に向かうは、日中の喧騒感からの回避する方策ではあり、心身の患い(憂い)感を調整し得るひと時であり、皆さんの良きコミュニケーションの場、憂さをしっかり洗い流し、日中、何事があったとしても、凛として心をリラクゼーションして、1日の終りに感謝して、眠りに着くこともできるように思われ、流石に、さも在りなん人生!!
山あり・谷あり・雨あり・晴れあり・雪あり・辛苦多々の経験を、我が生き方の知恵にして、明日を生きる力に誘われているのではないかな?

身体の老化現象が、目に見えて進化するに従い、一抹の悲哀さを感じるようになってきている。
マンションの住人の方々の周波に紛れ込めば「老いるを嘆かじ」日々一つ一つの滑稽なる現象を楽しめば良く、またも相互間の日々の笑タイムの備えとなり楽しみなこと。
そのように思い過ごしてみるのは如何だろうか?と思いを漂わせているのです。

出産率・出生率の向上を図っていこう!!は大切な呼びかけ…。

やっぱり、一国の人口減少は深刻で、国力を弱めていくのは確かな事と認識してきたが、一応私、はるか高齢の身になって叫んでみるのは如何なものか?

私は、一人の男児を出産して子育てを経験し、息子の社会的独立までを支えてきた!
と申し立てているわけですが、その間、どんどんと出生率の減少は、とどまることなく続いています。
学者や政治家が、社会問題として取り上げ、問題提起されているのは、確かに良くわかる。が、心の深層に引っかかってこないフレーズになっているのではないか(心苦しい意見ですが)

多くの女性が、政治の世界に立候補していく時の政策に掲げて、当落の憂き目を決めていかれますが、果たして、その目玉政策が浸透しての当選とは思われず、されど、その政策が牽制されて落選したという事でもなく、明快な当落の意味付けになってない。
もどかしいところであり、大概の女性候補が、それを掲げているにもかかわらず、浸透させる力にはなっていない。

政策に掲げにくいテーマなのか?
男性候補が「出生率の向上」を掲げているという風でもないのは、言いにくいのか?実はあまり深くとらえていないのか?

政策の優先度は、そう言う事ではないとの思いなのか?

全世界的にそのような傾向にあるように思われるが、他人ごとではなく日本の国力としては、確かに深刻度は大きくなっていると思います。

 

生き方の多様性、生き方の選択の自由が、身近な人同士の間で、または先輩・後輩間での意見交換・議論を尽くし合わぬままに、ちょっと独り歩きして、都合の良い(というか、すりあわさぬ受け止め方の中で、今様に言うならば、多様性思考の広がりの中で、苦心・苦痛を感じない)、言い過ぎかもしれないが(深い責任を伴わないで済む)生き方の選択になってきているのかな?と正直、思う事があります。

以上、私自身、現時点での所感を問題提起の形で述べてみました。
ですので、この先まだ、いろいろと学んでいかないといけないのですが、「日本の国力」の維持向上として、戦争云々ではなく、平和的で人間的な国力の維持向上の在り方として「出生率」の顕著な低下低迷を捉え、考えていきたいものだと思うこの頃です。

新年あけましておめでとうございます

お正月3カ日が、あっというまに過ぎ行き、明けて5日の今日、会社への初出勤です。社員の皆様とお顔合わせれば、やはり、其々が、意気揚々と清々しいお顔をされていて、新しき年の始まりの新鮮さを感じました。
社員一同での年賀交換は、凛としたものが漂い、威勢のよい(女性)社長の「元気でユーモア」なご挨拶を頂き、新執行部の役員紹介があり、幸先の良い2026年の始まりを感じ入った時間でした。

2026年(令和8年)丙午(干支)の詳細は良くわかっていないが、丙午は、火の力を象徴する年とされていて、昔から、丙午に生まれた女性は気性が荒いというような迷信を聴いて育ってきたわけです。

私は申年で今年の干支の性格(性質)に関与するものではないけれど、血液型の性格分析と干支の性質分析による謂れには、どちらかと言えば関心が高い方かしらね!特別に、信じ、なびいているということではなく、楽しんでいるという具合かしらね(無関心?そっけない?訳わからない?どうなのかしら?)

この迷信を信じている人は、若い人達にもまだ一定数いるそうですが、なんら出生率には影響していないということなので、「それはそれこれはこれ」という事なんですかね。
そのシレッと感は悪くは無いですが、歯止め知らずに毎年毎年、出生率が減じていくばかりで、回復のニュースは遠ざかる。
一方、結婚率に於いても、1970年以降、半分以下に減じていっており、晩婚化・未婚率上昇が、主な要因となっているようです。

このお正月3日間、新聞・雑誌など、チラ読みしていたのですが、イヤー!
もう、世の中、若い方々の世相というか思向は、私など、読み解けなくなっているわ!?
世代間差を強く感じている私。一念発起して思い直している次第です。

他人さま、それぞれの生き方・人生ではあるので、要らんお世話な思考をぶっちゃけるつもりはないけれど、多くの方々にお会いして、しばしのコミュニケーションを図っていくとなると、最近は、疲労感を感じたりもして、私自身がコミュニケーションづくりを警戒しているではないか?と。

何だろうな~!この心理。しばし週刊誌など読みこなし
(要するところ雑誌が置かれていれば、待ち時間の合間に情報は仕入れることはできるだろうから…。)

判然としない新年の幕開け感ありですが、同年代の友人と語り合えば、勢い活気づくもので(従って、もう少しだけエネルギーの要るコミュニケーションの力)(…深部への交流)を発揮すれば、少ししんどいかも知れないが、身体の底からの心地よいエネルギー力を感じるようになりますよ~!

では皆様!お元気で朗らかで楽しく気丈に、この一年をお過ごしくださいませ。

12月も半ば過ぎ…月日の過ぎ行く速さの嘆きと希望節

年の暮れゆくままに何彼となく日々を過ぎ越してゆき、急かされるままに仕事をすれば、時には、ふ~っと「思い患う仕事ってなんやねん?」「別に~?」「捉われているわけではないけれど~?」

1年の終りの12月ならではの、無味無臭な独り問答の味気ない渇きを飲み込みながら、つくづく時間の流れの速さを感じ、旧暦の暦表現では「師走」と言い回す年末の慌ただしさが、しっかり身にしみる馴染みの言葉となっている。

この表現を聴けば、世の中は景気づけられ、年の瀬の活発な賑わいが伴ってくるというものです。

「師走」が持つ力(語源)と言って良いのかどうかわからないですが、世の中、味気なく変化の伴わない年の暮れと見通せば、世の中の景気感は停滞してしまう事になるのだろうけれど、世の中に「師走の候(12月)」と顕現すれば、忽ち世の中の景気感を呼び込む力があるのは、確かなように思われる。

社会の慣わしに染まっているのかもしれないが、師走という言葉には、本来、年末の忙しさを象徴する意味と由来があり、12月を指す日本の伝統的な名称(ウェブ解説)と。
途絶えゆかないのは、景気の担い手用語としての、この世の景気観を呼び込む力が、この語源の中に生まれたのだと思ってみたが?どうだろう?
(ウエブ探索:師走とは、旧暦の12月を指す。が、現在では、新暦の12月の別名として使われている。普段落ちついている僧侶(師)でさえも走り回るほど忙しい。というのが語源として広く知られている。師走の忙しさをあらわしている)

さあて、現世に生きる私たちの認識・感覚に、合致しているでしょうか?

多分にまだまだ、受け入れられている師走の忙しさの背景として認識できるのではないでしょうか?

人の思いや環境の作りは、次なる次元の、世の生業の新たな文化性を受け入れながら、深化・進化していくのだろうとは思いますが、心配しなくても、各地方・地域や居住区・職場環境が、変遷していく中で、もしかして新たな師走文化が生まれ、引き継がれているくのかも?とも思う楽しみはあるのではないか?と。

師走・新年のおせち・お宮参りのお賽銭投げ等々、神事に伴う習わしごとだったとしても、懲りない共感性はそこはかとなくあり続けており、近代の豪華で創意工夫の利いた「おせち料理の基準・基本」はその時代の変遷を共有しており、師走の忙しさを味わい楽しんでいることは、確かだと思う。

昔も今も、そうした神事に関しての豪華さは変わらず、創意工夫の変遷は、許されてきたと思う。
通販で、あっさりとおせちのお重を予約購入するのも楽しみでもあり、やれやれほっとする感もあり、年の瀬の賑わいに刺激されれば、嫌気にならず淡々と自分流に味わい過ごせばいいのかな?

12月は年の暮れ、我が身の置き所や働きの動線、時間の使い回し等々、自由の利かない無限の重さが加わってくれば、やはり一件落着の区切りを意識しながら、草臥れない仕事をし、し回しのある整いの行動を工夫し、草臥れず楽しく年の瀬の仕事仕舞いをしていけますよう、陰ながら応援しています。

そして、我が身の健康を願い、周囲の親愛なる方々のお幸せとご健康を祈り、心境新たに、2026年の新しき年をお迎えいたしましょう。

祈り:来年もまた、元気よく皆様とお会い致しましょう。
良き新年をお迎えください。