看取りの看護と称する期間とは…それは臨終の間際期?

私は、看取りケアは、敢えてそのように取り上げるべき特別なものということではなく、日々のケアの延長線上にあり、日常ケアの充実が基本となると考えている一人です。
入所時からの関わり、あるいは在宅療養の関わりが、“いつもとちがう”“察知しえる変化”を捉えることができ、だからこそ重要となる。在宅療養中あるいは入所時から看取りを意識した関わりを行うことが,一人ひとりの生きざま、高齢者の希望に沿う看取りケアにつながると考えていて、言うならば ~周終末期看護~ といってみても良いだろうか?

在宅であれ、施設であれ、高齢者の方が人の手助けが無いと生きにくくなっていく、自らの生体の反応に対して、苦痛、不安、戸惑い、喜び、など 心模様の変化は計り知れず、大きくあるように思われる。高齢者の方が、人生上の危機を乗り越えるための伴走者となる医療従事者(とりわけ看護師)たちに、じっくりと気持ちを話すことは容易ではないが、日ごろ、看取りの看護を意識して活動しているのであれば、この状況を確と受け止め、看護活動のニーズ領域を広め、推し進めることにつながっていかないだろうか?

高齢者の日常生活に寄り添えば、そこには心身ともに重要なケアの担い手となる必然性が出てくるからであり、必然性に支えられて、高齢者の希望が静かに見えてくるではないか…。

大阪府看護協会の「看取りガイドライン 自然な死へのアプローチ」を一部引用させていただくと、

『……高齢化の進展に伴い、重度の要介護者や認知症高齢者が増える中、在宅・介護領域における看護の役割が重要になってくる。「ほぼ在宅(施設)ときどき入院」の社会を迎えるにあたり、施設での看取りや在宅・訪問看護での看取りニーズも高まり、地域や施設での「暮らしを支える看護」への期待は一層強くなってきている』
そして、『生きとし生ける者には必ず人生の最終段階が訪れ、ご本人・ご家族・関わるケアスタッフが「命は限りある」と理解し、受け入れることによって不安・恐怖・悲しみを、平穏で感謝に満ちた時間に変えることができる』と。

これは、人が、人生の旅における終焉の希望につなげながら過ごせる事ではないか!

しかし、現実の問題として、考えておかないといけないことがあります。
看取りを行ってくれる医師を探すのが、在宅で看取るための第一ステップとなるのですが、そこの切り抜けが何とももどかしいお話です。

私は、最近まで知らなかったことですが、ご一報をお届けしますね。

一般的に医療保険上の届け出の中に、「在宅療養支援診療所」というのがあり、その診療所は、自宅から半径16km以内にあることが条件になっている。なぜ16kmなのか?
医療保険制度上、何かあった際に飛んでいける距離が16kmと想定され、在宅療養支援診療所は、その範囲でないと医療保険上の加算が受けられない。在宅療養支援診療所は往診による在宅医療を積極的に行っている診療所であるが、すべての在宅療養支援診療所が在宅での「看取り」に積極的なわけではなく、医師が3人以上いることが条件になっている。しかし現実として、医師は夜間対応も多く発生し、スケジュールは休みもなく身体的に相当きつい状態になり、引き受けにくい状態でもあるらしい。そのような診療所でも、医師自ら「終末の看取り」は、病院でということを進めざるを得ない状況にあるのだと。

考えさせられますね。

看護師として、「周終末期看護」と捉えて、私説を展開させていただきましたが、高齢者として生きる私は、このようにケアしていただける看護師さんに出会えれば幸いなるかな!です。

 

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レジリエント(Resilient)な看護

こんな言い方があるのだろうか?
最近、目にした言葉なのですが、
実は「本当は看護活動の中にこの力が必要なンだよねぇ」と頭をめぐるつぶやき。
ちょっとオチがあって楽しめるお話ができるのでは?
と思い書き連ねてみたのだけれど、読んでいただけるだろうか。

レジリエント=この言葉を、しなやかな回復力(弾力的な回復力)と意味づけ考えてみれば、
看護としてどんな関わりがその力になって回復力を促進するのだろう?
…などと思いいたらせてみれば、
なかなかインパクトのある発想が出てくるものではないかしら?

大概いつも通り、看護師さんたちが行使するコミュニケーション力(話術)が思い浮かぶし
私自身もそのたぐいではあるけれど、面白いワクワクする話って、
何かの刺激において発想が湧きあがり、それが自分ひとりで空想することも良し、
誰かに話題提供することによって膨らんで行くこともあろうしに快い話の広がりなって行きますよね。
つまり、いつもの私自身の範疇では及ばない話題が、
何かの刺激(新聞・本・TV・車中の人々の会話・仕草など等)から
新しい見聞・見分によって提供されてくるンですヨネ。

そんなことを思いながら2~3日後、真夜中に目が覚めてトイレに行った後、
寝つかれないままに時間を過ごしていたが、ふと電気を付けて、
枕もとの本(国語クイズなるもの)を手にとって読んで見ることにした。

なんとまあ、日本の古来より「雨を表現する」ことばが、
優雅さへの期待と面白がりたき気ごころにはまることしきり。
眠る策が覚醒の策になると思いきや、適度な疲労感に促されて
気持ちよい睡魔に誘われて眠りつけたというお話になりました。

雨に関する本は、何冊かあって限りないそうだ。
そこでちょっぴり、どんな雨降りがあるのか知る人ぞ知るのでありますから、
皆さんもお知りおきの限りを突破して、いろいろな雨降り模様を楽しんでください。

土砂降り 梅雨 肘笠雨 紅雨 緑雨 小糠雨 甘雨 霧雨 細雨 膏雨
霖雨 慈雨  喜雨 村雨 群雨 時雨 にわか雨 半夏雨 夕立 凍雨……∞

4月の頃の雨もたくさんありますよね。
春雨 菜種雨 卯の花腐し 虎が雨 五月雨

その他もっとロマンティックに降る雨、もっといろいろ。
今日は久しぶりにブログ更新をしたものの、
話のオチとしての止めどころが解らなくなってしまいまして、お許しのほど。

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久しぶりにナイチンゲールのおはなし

最近、宮沢賢治の本「いのりのことば」を読んでいたら、
どうしたものかナイチンゲールを思い出してしまいました。
私のどんな琴線に触れたのか…?ちょっと不思議な気分ですが…?

ナイチンゲールについて語るのもずいぶん久しぶりです。
ナイチンゲールは私たち看護師に
「看護する力」「看護することの意味」「看護の先にある希望」
という事に関して多くの言葉を残してくれていると思っています。

個人(患者)が持つ自然治癒能力を引き出して、ケアする看護の力は
『命の尊厳性』に問いかけることのできる力であると思っています。

看護の現場はとにかく忙しい。
看護師は常に、歩きながら(というよりは走り回りながら)、
何気なくそこそこの場を往来していながら、しっかり場のエネルギー、
患者・医療従事者チームのエネルギーを感じ取り(看護体感)、構造を読み、
何らかの意思決定に向けて思考を整え協働への作業に向かって歩いています。

ここで言う「看護体感」というのは私流の表現ですが、
医療現場を隈なく歩いて看護り立ち止まりながら、
そこに患者さんがいる限り、プラスマイナス何らかのエネルギーを感じとり、つらい悩みに共感し、
闘病に疲れ、無気力になりそうな患者に寄り添って看護り観察するということなわけです。

さて、ナイチンゲールへの切込みをしてみようと試みてみましたが、
なかなか彼女の残してくれた言葉は深くて遠大です。
到底及ばない話に首を突っ込んでしまいましたが、
どなたか彼女の残した看護論から学びえた一辺の看護体験を教えていただけるとうれしいです。

私たちの看護疲れからのリセットは、自然の風景や小さいころの思い出に巡らせて見ると、
知らず知らずのうちに癒されている自分に気づくことがあります。

私たちの足は前を向いていますよね。
その足は否応なく前に向かって進むようになっているのですから、
仕事中歩いているとき、ちょっと意識して想いを変えてみてください。
どんなに嫌なことに出くわしても、前を向いて歩けば、
どこからともなく顔がほころんで勇気が湧き出でてきてくれますから。これほんと!

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患者さんからの「ありがとう」は元気を再生するエネルギー

看護を通して何かを成し遂げるとき、そこには職業に伴う責務があり、
ある意味不自由でもあり、全神経をその看護の技に注ぐのですから疲労感を伴います。

ですが、医療チームの一員としての看護実践ではあっても、
看護を展開する技は「個人の自己実現そのもの」であるというのが、
このブログ「ノンちゃんの猫目線」の基調となります。

看護師さんたちは患者さんからの「ありがとう」に癒され元気付けられることが多いようですが、
この一言の力強さを
“元気を再生するエネルギー”と捉えてみると
色々な感性の広がりがあるように思います。

私の看護経験のなかからちょっとエピソードを告白してみますと、
農家の笑顔がかわいい高齢の婦人が内臓疾患で入院をしてきました。
約3ヶ月過ぎたころには病状も安定期に入り、主治医から退院を勧められました。
彼女は入院当初、早く帰りたいと懇願していましたが、次第に看護師たちにも馴染み、
遠慮がちではありながらもよく話しかけてくるなど、良い関係になりましたから、
今度は「退院したくない!ここに居させて欲しい!」と涙ぐんで懇願しました。

家族関係に問題があるとは思えず、とにかく「具合が悪くなったらまたいつでもいらっしゃい」と
なんとか説得して退院することになり、退院の日には何度も何度も
「看護師さんありがとう!!」と涙ぐんでいました。

それから1週間後、この患者さんは再入院してきました・・・。
不安感におののくように、患者さんの人が変わったようなその状況に唖然としたものです。

この話には、いろいろとその後の分析があるのですが、
「ありがとう」の言葉が、喜びから無力感に変わったエピソードとしてお話しました。

ともあれ「ありがとう」の一言は、
新しい何かを生み出してくれる力があるように思います。

医療の現場で「ありがとう」の一言は、どんなときに発せられるのだろうか?
失敗の向こうに「ありがとう」の一言はあるのだろうか?
「ありがとう」の一言は、それまでの嫌な思い(負の思い)をすべて飲み込んでくれるものだろうか?

皆さんの「ありがとう」にまつわる深良い話(エピソードやご意見)も是非聞かせてください!


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