ここ2~3年の間、シニアマンション内の皆様が
「ご両親の墓仕舞いをしてきます」
と言って外出される方々を、4~5組ほどをお見かけしながら、私の心は、何気に刺激を受け、漠然とながら、墓仕舞いの仕方・その先故人の祈りどころはどうすればいいの?
要するに、故人となって長く墓所で過ごしてきた母の示しどころ(お墓)が、影も形も無くなるのであり、祖父と父からも遠ざかることになるのです。
実は、父・祖父が住職であった故、お寺の墓所の一角に、広い住職の墓地が作られていて、代々の住職が、其其の墓石の下に眠っておられ、守られているのです。
墓仕舞いした母の居場所は、我が家の小さな箪笥の棚台が「仮の宿」。
誂えられて、写真やお線香・お菓子・備え花などがセットされ、そこがしばしの居場所となるでしょう。
(一時的にも、母にとっては、安泰した居場所でありますように。しばし、現世で静かに過ごしていただき、その間、私は家族間で、母の安泰の眠りどころを話し合って行きますわ。)
友人たちのアドバイスも受けて、母を見送りたいと思っているのです。
我が命をこの世に送り出してくれて、多くの人たちとの出会いを大切にして、笑いあったり、一緒に遠足に出かけたり、そんなたわいもないことを日々繰り返しながら、数多の人々の知恵や喜び悲しみを共にかみしめあい、そういえば、ご近所のおばさんと、大ゲンカしたこともあったりしたね。
最愛・親愛なる故人との別れは、やがて忘れられ、個人的には思い出の中に…。
今まで代々の家を継ぐ人が、お墓の証を通して、家系的な把握ができ、家を継いだ人が家系を繋ぎ守っていくという栄誉な大役をあずかり、お墓を守る…。
まあ、そのような歴史的な痕跡を引き継ぎながらの営みが、かつてはあったことなんですが、どうしてそうなってきてしまったのか?
お墓仕舞いする…なんて簡単にいうご時世になりました。
思考の深さがなくなってきて、単純な思考がついつい巡ってしまっているというのでしょうか?ね。
私は、息子一人ですが、彼は東京に居を構え、二人の子供たちと妻さんと共に過ごしており、私は一人。
シニアマンションでの1室に暮らしながら、思います。
自立した生き方をするということは、他者への関心というか他者への感知力を持って、気楽な声掛けをする日々を過ごす。
こうしたリアクションの交感が大切だなと、つくづく思うこの頃です。
ここのマンションでは、時に、黙って居られなくなるという事があり、積極的に「健康上の変化、そのために居住を変更した、死亡された等々」の情報は、広報されません。
静かに知らぬ間に、これまでをご一緒した方々と無言のお別れをするという日常があります。
が、これはこれで、良きお別れの在り方だな~と思うこの頃です。