12月も半ば過ぎ…月日の過ぎ行く速さの嘆きと希望節

年の暮れゆくままに何彼となく日々を過ぎ越してゆき、急かされるままに仕事をすれば、時には、ふ~っと「思い患う仕事ってなんやねん?」「別に~?」「捉われているわけではないけれど~?」

1年の終りの12月ならではの、無味無臭な独り問答の味気ない渇きを飲み込みながら、つくづく時間の流れの速さを感じ、旧暦の暦表現では「師走」と言い回す年末の慌ただしさが、しっかり身にしみる馴染みの言葉となっている。

この表現を聴けば、世の中は景気づけられ、年の瀬の活発な賑わいが伴ってくるというものです。

「師走」が持つ力(語源)と言って良いのかどうかわからないですが、世の中、味気なく変化の伴わない年の暮れと見通せば、世の中の景気感は停滞してしまう事になるのだろうけれど、世の中に「師走の候(12月)」と顕現すれば、忽ち世の中の景気感を呼び込む力があるのは、確かなように思われる。

社会の慣わしに染まっているのかもしれないが、師走という言葉には、本来、年末の忙しさを象徴する意味と由来があり、12月を指す日本の伝統的な名称(ウェブ解説)と。
途絶えゆかないのは、景気の担い手用語としての、この世の景気観を呼び込む力が、この語源の中に生まれたのだと思ってみたが?どうだろう?
(ウエブ探索:師走とは、旧暦の12月を指す。が、現在では、新暦の12月の別名として使われている。普段落ちついている僧侶(師)でさえも走り回るほど忙しい。というのが語源として広く知られている。師走の忙しさをあらわしている)

さあて、現世に生きる私たちの認識・感覚に、合致しているでしょうか?

多分にまだまだ、受け入れられている師走の忙しさの背景として認識できるのではないでしょうか?

人の思いや環境の作りは、次なる次元の、世の生業の新たな文化性を受け入れながら、深化・進化していくのだろうとは思いますが、心配しなくても、各地方・地域や居住区・職場環境が、変遷していく中で、もしかして新たな師走文化が生まれ、引き継がれているくのかも?とも思う楽しみはあるのではないか?と。

師走・新年のおせち・お宮参りのお賽銭投げ等々、神事に伴う習わしごとだったとしても、懲りない共感性はそこはかとなくあり続けており、近代の豪華で創意工夫の利いた「おせち料理の基準・基本」はその時代の変遷を共有しており、師走の忙しさを味わい楽しんでいることは、確かだと思う。

昔も今も、そうした神事に関しての豪華さは変わらず、創意工夫の変遷は、許されてきたと思う。
通販で、あっさりとおせちのお重を予約購入するのも楽しみでもあり、やれやれほっとする感もあり、年の瀬の賑わいに刺激されれば、嫌気にならず淡々と自分流に味わい過ごせばいいのかな?

12月は年の暮れ、我が身の置き所や働きの動線、時間の使い回し等々、自由の利かない無限の重さが加わってくれば、やはり一件落着の区切りを意識しながら、草臥れない仕事をし、し回しのある整いの行動を工夫し、草臥れず楽しく年の瀬の仕事仕舞いをしていけますよう、陰ながら応援しています。

そして、我が身の健康を願い、周囲の親愛なる方々のお幸せとご健康を祈り、心境新たに、2026年の新しき年をお迎えいたしましょう。

祈り:来年もまた、元気よく皆様とお会い致しましょう。
良き新年をお迎えください。

ノンちゃん

投稿者: ノンちゃん

大阪・住友病院で教育担当副部長を経まして、系列看護学校の副学長を歴任。その後、活躍の場を他の総合病院に移し、看護部長として就任いたしました。現在はワークステーションで登録スタッフの方の相談役として、様々なアドバイスを行なっております。長年の臨床経験・指導経験を元に得た知識を、皆さんにお伝えできればと思います。