いよいよパラリンピックが開催されますが、
彼らは、自身の身体上の障害を乗り越え障害者というその表現に
縛られてしまいやすい自己確立から解放されて、
社会に人として生きる共存者として自由な自己確立を築き上げて、
逞しく明るく、私たちに感動を与えてくれる存在になっている。
まもなく、リオでの戦いを思う存分に私たちに見せて魅せて観せてくれる。
期待したい。
遅まきながらの話題ではあるが、8月15日、視覚障碍者のホーム転落事故で、
盲導犬を連れた男性が線路に転落して死亡したという痛ましいニュースが流れた。
1994年以降、視覚障碍者のホームからの転落事故による死亡、
または重症を負った人は、47人にのぼるという。
実際、視覚障碍者でなくとも、駅のホームは、欄干のない橋として危険なのだ。
近年、駅のホームには、ホームドアが設置されてきている。
費用の関係上、まだ全体の3割程度らしく、
全てに設置されるには長い時間が掛るという。
それにしても目の不自由な人にとって、ホームがどれほど怖い場所なのか?
私は、看護学校時代の実習で、目隠しをして杖をもって、
車道に面した歩道やら、駅のホーム(視覚障碍者用に設けられた黄線、白線に沿って)
を仲間の学生に介添えしてもらっての歩行体験をしたが、
歩道路ですらおぼつかなくて足が竦み、ましてや駅の構内、
ホームとなると、恐怖の想像逞しく動けなかったのを覚えている。
視覚障害の方々は、音に敏感で手先に伝わる杖の感触の察知は鋭い。
であっても駅は構造が複雑で騒音もすごく、勘所は油断ならず、
近辺を察知しかねてしまうという。
筝曲家で盲目の宮城道雄氏(彼は夜汽車内での移動時、誤って転落死された)は、
こんなことばを残している。
『自分の歩くところは、狭いが、耳や心に感じる天地は広い。』
この言葉を紹介された解説者曰く。
少しの想像力が、人の安心して歩けるところを広げていくことができる。と)、
極めて明るい光ある温かい解説だ。
目の不自由な人にとって、ホームがどれだけ怖い場所か?少しの想像を働かせよう!
障碍者、例えば、視力が無い(もしくは光を感知することができる程度)の方々は、
日常的に五感神経を研ぎ澄ませながら感知能力を高めていらっしゃる。
そしてやがて彼らの能力に沿う生活スタイルを作り上げて、
自分らしさをしっかり主張できる生活手段を獲得しているのだ。
障碍者が普通にアイデンティティーを持つのだ。
「咲かなかったら枯れる」「咲かなかったら 咲かない花になる」(中略)
自分が、どんな考えで、どの立場で、できるのか?
できることをしようと思わない限り花は咲かない。
…自分の花を咲かそうと思えば、どんなにつらくても咲く力がある。