夏過ぎて秋きたる…!? 体力強化の季節と心得るなり~!!

ようやくに秋来たりて名月を愛でる静かな喜びは、素直に心地よき季節の到来と心得て如何様にも思い巡らせては、楽しむこと多くなるものですね。

健康的で、健全な営みの意識も高まる季節と心得れば、体力強化の季節と力づく思いが強くなる。
いやいや体力ある限り、人々は秋の色とりどりな山野の風景に靡かれては、メロメロに。
お疲れも何のその。身も心も軽やかに動き始めてありがたい。
すべて能動的な心地よさに、身体の動きが軽やかになっているのではないでしょうか?

実り多き秋の収穫はありがたく、家の周りの木々、草花、空の雲までもが風の流れに揺らめき、ほどなく周辺の景色に目をやれば、既に秋の終わりを知らせる景色への色づきが巡りくるのですから、意識しようとしまいと、優しく秋の温度感を受けとめることができ、うれしくなるものです。
殊に、あの秋の空は、女心にも男心にも例えられ、如何様にも変化する様は結構楽しめますね。

さて!秋の季節になってきた近頃は、まだまだ暑さ厳しくはあるけれど、なぜか秋めいているのを感じてうれしくなります。
そこで、早速ながら、体を鍛える季節と心得て、運動習慣を身に着け、日常生活上の体力のリセットを試みる時なのです。

実は私は、昨年の後半から、一定の運動(標準歩数+α歩数≒1日1万歩)を努力目標に設定し(ちょっと多めですけどね)、脚力強化を意識して「足の膝あげ歩行」で歩行してみることにしていますが、案外な歩数を歩けているのです。
少なくとも1日6~7千歩は歩けており、プラスして、我が室内歩数を1千歩に設定、プラスマンション館内の所用歩数を2~4千歩として計算すれば、1日1万歩前後となり、この設定は1週間試行しても、負担感もなく、そのペースで努力している最中ということになります。
まァ、高齢者は、ちょっと休んだだけでも、筋肉が固まりやすいため、まめに動いている方が良いと言われます。
実際、そういう筋肉の固まり感は、皆さん経験する事が多いですよね?納得な話です。

1日1万歩を目標設定して、始めたのですが、身にかかる負担の加減(身体への負担感の重さ回復速度や回復過程のバランス)がとれるようになれば、標準設定されている歩数より、少し上を歩いてみたくて、身体に感じる快感・負担感は大丈夫か?慎重に機敏に察知するように構えて(通常時と歩行後の脈差とその数値回復時間など)仮設定ながら実施してきたのです。
当初、良き設定かどうか解らなかったけど、とにかく1か月間は、負担感なく歩けて、満足感があり、足全体の筋肉(と言って良いかどうか?)の重量感が感じられるようになり、肉付きが良くなってきたのは確かな実感です。
両脚の運び方も、結構軽やかになり、日常的に、これくらいは歩ける、という確信と、安定した体力の保持ができるという自信となって、挫折感には至っていないのです。
と思っていた矢先のこと、とんでもないしくじりエピソードとなるのですが、私は夏場の異常な暑さをしのぎながら、午前中のボイス・トレーニングに行く往路、余裕あるバス時間を見込んでバス停に行ったところ、既に発車してしまった後。

次のバスは、1時間待ちで、レッスンには間に合わない。さてどうしたものか?
30分~40分かけて歩いて行かなければならないその道は、平坦な道でありそうで、曲がりくねった緩い坂道や、もう少し傾斜のある長い道もを歩かねばならず、お日様は高く照り付け、熱射が酷い。
昔ながらの豪奢な家並みが、うまく影を作っているのだが、すべての家並みがそろって影を作ってくれているわけではなく、秩序のない日照りがあり影ありの緩坂道は、やさしい影ばかりを作ってくれてはいない。
ほんのお裾分けのような影道を、ありがたく思いながら、確かな足取りで歩いて、やっとのことレッスン場にたどり着く。

汗にまみれ、吐く息は荒々しく、しばらくは、ゆるりゆるりと腰を曲げては伸ばし、伸ばしては曲げをしながら体調整備や汗取りをしなければならなかった。
このしんどさは、その後日、私の体調に大きく影響したことは間違いない。

翌朝、へばった身体は、しっかり脱水症状を呈しふらつき状態で、まもなく近くのクリニックを受診したところ、血圧は最高値78と低く、左手の痺れ感も含めて、危険な脱水症状をきたしていると。
(実は、昨日家に着いた後は、休息もし、水分を補給したつもりでした。)が、クリニックの先生に、水分量を問われ答えると、「そんな水分量で飲んだことにはならんよ。この血圧の低さ、これは血が巡っておらんし、脳血流も滞って、梗塞起こしてたら大変だ」「いかにも少なすぎるではないか。もっと飲まないと。この暑さでそのくらいの時間、外出するなら、ペットボトル2~3本ぐらいは補給しないと」とのお説教。

確かに、夜は怖いと思いながら、水分をまめに補給する(補給し得てると思っていたが)、頭痛を伴いながら眠れぬままに朝を迎えた次第で、早速、クリニックの先生に診ていただいたその時は、クリニックの冷蔵庫に冷やしているペットボトル水を飲ませていただき、一命を取り留めたと言えば、大げさな~!と言われそうですが、先生に叱られて、頭ふらふらしながら、しっかり飲ませていただき、即、市民病院の脳MRI検査となり、映像では、やはり血流の悪い個所が2か所見つかりましたが、無事、大事を見逃すことなく、早期の対応が取れ、無事に経過したということです。

猛暑が続くこの夏場は、もう終わろうとしているのですが、残暑の暑さは、まだまだ厳しく、依然として水分の補給を怠ってはいけない状況が続きます。
水分を補給して常に血液の流れを良くしておくことが大切です。
皆様は、既にこうした状況も心得て、お過ごしのことと思いますが、私が申すことではないのは承知していることながら、多少、自嘲気味に、念のために申しあげました!!残暑厳しき折柄、お気をつけてお過ごしくださいね。

夏場の日照り最中の歩きは、老いも若きも…ハテッ?

私は、文句なしに“夏場に弱い女”
どうにもしようがなく、夏季の苦痛から逃れられず、我が身を削るように弱っていく。
老いの身にとっては、夏の熱波の体力消耗負担は、二重に重なる苦痛。
身体動作の対処にまごつき、一つ一つの動作が、サッさとスムーズに運ばない。
手がかかり、時間がかかる。
その上、身体の動作が今一つ安定しない平衡感覚の鈍麻は、転びやすいとあって、慎重になるものだから、結構余分な力量を使っているんじゃないか?と…。
夏場の我が身を遠巻きに眺めてみると、もうほんとに御婆ちゃん状態になっていて、滑稽すぎて笑えても来る。
いやいや、そのように貶めて考えるのは止そう!!
大切な命を永らえて今を生きている身ならば、加齢なる滑稽さ、退化への成長過程を受け入れ、時には丁寧に退化の流れに抗してみるのが良いのではと思うが…
とんでもない奇策を考案して周囲を驚かせてみる、という意気込みや楽しみを増やし、愛しみを深くして生きていくのがいいのではないか?
この頃、つくづく我が身の老いる力に、抗すべき何かの手立てを考え実行してみる方法がないものか?と。

しかし、ちょっと老いのボヤキを言わせていただくと、何事の所作も一手間多く、掛かるのを自覚し気持ちが萎えてしまう事が多くなり、弱気に引っ張られてしまいます。
ボヤキを口に出せば、それは良くないという認識はある。
何しろ、顔の表情筋活動が減り、表情の豊かさがなくなり、活き活きしなくなってくるのは確かだから。
さらに、ボヤキを口に出さないようにしているとはいっても、思いっきりボヤいてリセットしてみたくなるという気持ちのざわつきがあるのは、どうしたものか?
何度も支度を繰り返し、一度できれいにすることが段々できなくなり、何事にもドンくさくなっているのである。

時には息子に叱られることもあり、息子の励まし・愛情ある応援叱咤と思うも、さすがに、息子に直言されると、悲嘆のどん底に突き落とされたように悲しくなる(もう少し優しく言ってよネ)。
息子とは離れて暮らしているためか、久しぶりに帰ってきては、母の日常生活動作上の衰え、できていたことができなくなっているなど、高齢ゆえの衰えを見たり感じたりするのは、息子なりに悲しみになっているようで
「僕がキツイ目に言ってしまうのは、そんなお母さんではなかったのに…と思うと悲しくて…!?…、お母さんに発奮してもらいたくて…お母さんに元気で居てほしくて…。つい刺激的な発言になってしまう。お母さんが、僕のそんな返しに、元気な反発とか反応してほしいと思って…。けどつらいことは僕に言ってくれればいいんだから」と。
母は、涙がボワ~!出てきそうになる。
「ありがとう。解ってるよ。でももう少し優しくいってほしいわ」
確かに息子は優しい。街歩くときなど自然体でレディーファーストの巧みな先導・寄り添いをしてくれ、とてもうれしく楽しい時間を提供してくれ、とにかく優しい。
何の不足もない。息子なりに久しぶりに見る母親の老いた姿は、淋しく忍びなく、しみじみ感じるものがあるのでしょう。
彼の繊細な優しさには、母としては幸せ感に満たされるひと時です。

高齢の日常生活を自立して、一人で生きている場合、生活上のアレコレに関しては、自分流に省略をし、丁寧な所作で毎日を過ごすよりは、身軽くこぎれいにできるだけ負担を省き、手早く済ませるという活動習慣を、身に着けていくことが多くなり、我流に便利よい生活動作をこなし面倒くさいことは省略の一手を使いまくり、et ceteraなのです。

重労働になってしまって、身体全体が参ってしまう前に、後期高齢の活動変化を感知しながら、簡素な生活習慣・生活空間を作っていくことが、必要ではないかとつくづく思うこの頃です。誰かが何とかしてくれるのではなく、自分自身で生活の楽しみを簡素に創造していけるならば、ギリギリの限りまで、これほど楽しく、自分らしく生きていくならば、素晴らしきかな人生であったと、自分に言い聞かせることができるのではないかな?と思いますね。

私自身、夏場の猛暑続きに対しては、簡単に脱水状態になって死を招くというプロセスが、他人事ではないという大きな恐怖心になっていまして、そうはなりたくないという思いは人一倍あるのに、脱水予防・エネルギー不足防止・低血糖予防の対処をしっかり自覚して、外出しているとは限らず、むしろ無頓着ではないかな??
ただ後期高齢者は、体調の変化・我が身に起きた異変を感知しにくいことは、確かにあるように思います。
いずれにせよ、今年の夏は、猛暑・炎暑・激暑なのであり、老いも若きも相当に堪える夏場ではありますね?

皆様、夏場の過労や睡眠不足を防ぎ、脱水予防のために水分補給は十分にまめに行ってください。
そしてこの夏場、元気をキープして過ごしましょう。

大阪関西万博会場の「はて?」…驚きの感動・期待感はありそうですね!

最近やたらと、木造高層ビルが建てられるようになってきて、それって!規制されていたのではなかったか?はて???地震・雷・火災の惨禍!如何なものか?

関西に再び万博開催の話は、嬉々として受け入れていなかった私としては、尚更の違和感やら牽制感が頭を巡らせたものです。

不快極まる思いで、世の中を見まわしてみると、建築界はまさに木造高層建築へとまっしぐらの叡智でもって、すでに建設を可能にしていたのですね。
建築上の法律の改定もあり、近代建築の最先端を進んでいるのでした。
木造高層ビルの手法とは…鉄筋コンクリートの高層ビルが建てられてから116年も経つというのですから、私達の世代が共有している高層ビルの感覚からすれば、万博が終わればすぐ解体されてしまうという思いが先行してしまって、冷めてしまいます。

白い眼の妬み心が呟きもして「それで大丈夫なの?」なんて、生意気にも不安を感じたものでした。
が、そこは既にもう…世界的な建築の手法で、屈強な鉄骨の高層ビルではなく、人にやさしい、環境にやさしい木を利用した木造高層ビルの万博会場・パビリオンが出現するということで決定しているのであって、知識の浅はかな早とちりは、しないに限ると恥じ入った次第で、知識のリセットをしたものの、施政上の対策として「関西万博への再挑戦」は、まだちょっと解せないままでいるけれど…。

 

1970年、世界の国から「こんにちは大阪万博」の開催は、当に「日本の夜明けの時代」。

48年後に至り、不景気感の漂うその時、そして間もなく、新型コロナウィルスの世界的な感染流行直前の2018年11月23日に、フランスはパリでの第164回BIE総会で、万博開催国決定の投票が行われ、「2025年日本国際博覧会(大阪万博)」が決定しました。

2025年5月~184日間(開催期間4月13日~10月13日、開催場所は、大阪湾に浮かぶ人工島・大阪夢洲にわたり開催される大阪万博が決まり、会場建設は「木造の高層ビル建築」が認められました。
建築に関する法律的な改定は2010年、「公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律」が施行され、さらに2021年に改正された「脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律(通称・都市<まち>の木造化推進法)ができ、これにより、建築法が国や地方公共団体とともに、木材利用に取り組む「建築物木材利用促進協定制度」が創設され、行政上の補助金制度なども整いはじめて上記の大阪万博開催が決定したという経緯があります。

現状は、コロナ禍後の想定外の混乱があるなかで、各国の出展準備の遅れ・会場運営の整備も整いにくい状況となり、賛否渦巻く大変なことになりましたが、撤退することは回避され、継続させる強気を通すなど、緊張の終盤整備という今の状況になっているようです。

ここまでの道のりは、経済効果の減速や、これ以上の経費削減どころか、止む無き経費上乗せなどに対して、やはり「撤退」の賛否が、感情的に声高に取り沙汰されるなど、波乱を招いているのですが「大阪万博は開催する」の毅然とした段取りを調整、突貫的な工事日程を整えて、完成の方向に向かっているようです。

今更、何を躊躇する?
強気で開催を実行すべき時であって、なお一層、緊張にして慎重に仕上げをしなければならない。
何だかんだの対立意見を戦わせる時ではなく、失敗させてはいけない細心の注意をもって、臨まなければいけないということです。

進むべきか?!撤退すべきか?!二分する分かれ目の判断は、難しい英断を下さなければならない。
トップの責任とはいえ、このまま推し進めていく以上、失敗は絶対避けていただきたいと願っているのです。

だれもが納得し、きちんと歴史に残る価値ある遺産(レガシー)であってほしいですし「後世に引き継がれていく、持続可能な資源の在処」をきちんと示していただき、世界の名だたる大阪・関西万国博覧会に…とここまで来た以上、そのように創造していただきたい。と願いますよね。

数日前のニュースでは、この木造建築物の大屋根(リング)は、残らないとか…
そのような内容だったと思いますが、本当であれば、なんと、もったいないことか…???

私たちに創造の夢を掻き立てられるという、その期待の在り処とは?

  • 会場の大屋根(リング)は、面積6万㎡の世界最大級の木造建築になり、屋根の上に上ることができ、緑の丘が広がるそう(清々しさが押し寄せてきますね)
  • 屋上からは、会場全体や瀬戸内海を見渡せる(というからには、建築物への期待度が高まりますね)
  • 「多様でありながら一つ」の理念のもとに、それを表する建物になるというのですから、是非感じてみたいものですね。

期待する成功への祈りの中に、世界平和を願い、広く人々との交流を広げ、ホスピタリティーな心を込めて、フレンドリーに大阪万博開催の日を迎えたいと思っているのです。

希望的な活力を生み出す「キャリアチェンジ」

2025年度には、人口の大きなボリュームゾーンを構成している『団塊の世代』は、75歳以上の後期高齢者となり、医療・介護ニーズが、急速に増大します。
当然病床や人材を迅速・柔軟に確保できるよう、平時や感染拡大時の「状況に応じた対応方針を定めなければならない」というのは自明の事です。

地域における訪問看護の需要の増大に対応するには、訪問看護に従事する看護職員の確保が必要になり、在宅介護の需要の増大も伴なってくるわけです。

こうした状況の到来は、既に2000年初期に、2025年の人口動態に於いて
「超高齢社会、労働人口の減少」
が予測されており、危機感への認識が高まり、高齢社会の医療・介護体制の地域を包括する循環体制を整え、その充実化を進めていましたが、現実は、予想以上の速度で、超高齢社会・労働人口の減少・少子化(出生率の低下)が現実にやってきたわけです。
ある意味、この状況は予測されてしかるべきではあったはずで、既に現在、在宅系の看護師・介護職が不足している状況で、今後もさらに人材が必要とされるフィールドになっているのです。
殊に出生率の低下は、無策が招いた結果としての現状があると言っても過言ではないように思われます。

Indeed Japan株式会社は、25歳~49歳の正規雇用の転職経験者(現在就業中の正社員、会社経営者、会社役員、公務員、団体職員)の男女計8,399名を対象に、「未経験転職に関する調査」を実施し、現状の動向・問題点を発表されており、労働市場における人材不足を背景に、企業の未経験人材の求人や異業種・業界への転職が増加していることも示唆されています。

新たな仕事へのチャレンジやスキルの取得によって、キャリアの可能性を広げたいと考える人にとって有効な調査結果と思われ、未経験転職はひとつの選択肢となり得ていくのですね。

その様な社会の成り行き(変遷の動向)を積極的に認識するならば、異業種・業界への転職=(わが社のような)医療・看護・介護系の専門職へのチャレンジや、スキルの取得により、キャリアの可能性を広げてくることも大きく可能性は高いと希望を持つ次第です。
良き展望ではありますが、危機の中の展望の安定性は、やはり若年の労働者人口・高齢層の労働人口の増加を図ることに罹ってくるわけで、早期の突破口を創りだして対応していかなければならないのだと思います。

調査結果の要約をするならば、未経験転職の割合は、転職経験者の半数以上(54.3%)が未経験転職をしたことがある。
そのうち6割以上(61.3%)が「業種も職種も未経験」の転職をしたという事です。

未経験転職をした理由は、1位「給与を上げる」(25.8%)、2位「現状の業種・職種に不満」(22.5%)、3位「やりがい」(21.4%)や5位「新たな自分の可能性」「新しいことにチャレンジ」(ともに20.4%)という結果でした。

未経験転職の満足度においては、未経験転職をして「良かったと思う」人は61.4%、「悪かったと思う」人は全体で4.4%。
初めて未経験転職をした満足度は、年齢に関わらず高い傾向にあるといえます。
未経験転職を果たした人の「未経験転職」に対するイメージは、1位「新たな経験やスキルを積むことができる」(79.0%)、2位「新たな仕事やキャリアに挑戦できる⇒キャリアチェンジが実現できる」(77.4%)であり、35歳以上ではじめて未経験転職した人では「可能性の広がる転職である」が最多で8割以上(83.9%)という結果で、好感度が高いです。

未経験転職する人へのアドバイスとして、1位「年収や待遇などがどのくらい変わるのか確認しておく」(35.1%)、2位「自分のキャリアを振り返り、未経験でも活かせる強みを明確にしておく」(26.9%)、3位「無計画ではなく、先のキャリアを見越して未経験転職をしておく」(26.5%)という適切なアドバイスが発表されており、興味を持った次第です。

この事より学ぶべき見解は、人材紹介会社として転職希望者が、キャリアチェンジを望んでいなくても、面接時の特性から、気づいていないキャリアチェンジの特性情報を提供することが、大事な社会の活性化を図る一手ではないかと思われ、元気の出る社会情報であり、お互いの支え合いの情報提供が大事になって来ると思います。

このブログをお読み下さった皆さんが、何らかの形で刺激を受け、未来の自己像に思いを馳せる時、アイディアを浮かばせてみて下さい。
他人事ではない社会問題として、ご意見などフィードバックしてみるのもまた、楽しいことではないでしょうか?

皆様其々の2024年度がスタート!! 祈念することは何でしょう?!

令和6年(2024年)1月1日16時6分、石川県能登地方に震度5強の地震発生!

寝転んでTVを気楽に見ていた私は、ぎしぎし音と揺れを体感し、視覚に於いても我が家の室内は、明らかに横揺れ・重なりくる揺れの様相は、地震を認知し一種の恐怖感をもって直ぐに起き上がり、次に如何なる体勢でこの地震の流れを受け入れようか、不明快なまま、とにかく床に体を四つん這いに構え、如何なる地震にも即応できると思しき構えの体制をとって、ジッと地震の成り行きを、見届けていたと思う。

何しろ部屋では独り、親しき人影は何もなし。玄関の外にも人声のしない不備なる地震発生時の状況は、瞬時恐怖感を覚えたものです。

地震の震度が大きくなっていくのか?
これで収束していくのか?
息を凝らして、眼を凝らして頭を集中させるという3段の構えで、「如何様な地震の震度や揺れにこの身を守らなくっちゃ」という真剣な構えを真面目に整えて、様子を伺おうとした瞬間、TV速報に切り替わり、警報周知となって、ある程度、安心の構えに。
ちなみに、この時の石川能登半島で起きた地震規模は、震源の深さ:ごく浅い、規模:マグニチュード7.6という地震の概要だったようで、大阪市では震度4の影響。

これは、最近の地震の経験値としては、はっきりと身体感覚で相当大きな地震が捉えられ、TV速報が流れつづけていたので、独りよがりな恐怖心も湧くようなことなく冷静に状況を、受け止めていったように思います。
ところが、それ程間をおかず、津波発生情報が流れ、能登半島を中心にした日本海海岸の映像が映し出されると、その最初から目の当たりに見る海岸は、非情に不気味な「海のうねり」というか奢るなかれ、地震規模からして今から起こる海の不気味な静けさ?
白く波立つ巻き返しエネルギーの執拗さという表現が正しいのか?どうなのか解らないけれど、しきりに予告される白波の遠近感は、この期にジ~ンと不気味に迫ってくるあの映像は、身の引き締まる恐怖感が湧いてきたように思います。

地震規模・速報は、タイムリーにあちらこちらに能登半島全体が、地震の悲惨にさらされている様子を伝えるが、映像が無ければ、想像に難い。
翌日になって地震津波に侵食された光景は、言葉に尽くせず頭を垂れて立ちつくすばかり。

令和6年の始まりは、このような災難に遭遇して始まりました。
それぞれに個々人の方々が、遭遇し抱かれた思いは、多岐にあると思います。
TVのできる限りのタイムリーな映像から、その時に何をしないといけないのか?
どんなことをすべきなのか?

被災地に居る方々の悲惨な映像を負いつつ、ある意味、悲しみを共にし、良き結果を皆で喜び、経過措置に希望を失わず共有して応援し、支え合う温もりの距離感を実感し合う等、私は今回のリアルなマスコミの方々の取材力に、感謝申し上げたいと思っています。

現場には立ち会え切れないために、被害の大きさに対して、想像力が働かず、あるいは想像力の不足を補ってくれ、何をどんなことをする必要があるのかを、しっかり伝えて下さったように思います。

令和6年の始まりは、この地震・津波災害速報から始まりましたが、悲嘆にくれるのでは無く、学びの宝庫を得て、これからの弛みなく力強い前進の力を、国民全体に蓄えてくれたように思っています。

その様に祈り感謝して、新しき年の始まりのご挨拶とさせていただきます。

今年もまた、ワークステーション・メディカル事業部内で発信しております、ホームページや社員ブログを こよなく愛してお読みいただきながら、皆様と共に邁進してまいりたいと思います。

否!町(街)の中で熊さんと出会う!?今年の悲愴

昔(10代~2~30代初期の頃)は、「中学校生になれば、自主的に映画を見ることが許された」という時代でしたが、私は、経済的な制約もあり、映画への興味も薄く、積極的に見るほうではなかったが、母が、私を映画に誘って連れて行ってくれましたね。
そういう事もあって、年2~3回観る映画は、優しい少女系(いまでいうディズニーもの)が多かったなぁと思い返すのですが、時代背景的には、明治~昭和初期の物語。
村人の大人達が熊と向き合う視点が、凄まじい惨忍なシーン、毎年毎年、秋頃になると、同じ熊がやってきて、村の緊張が高まるという通説の背景の中で、映画の物語が繰り広げられたのでしょう。
実際、その時代の映画やTVで観た映像といっても、ほんの2~3本であろうし、また、きっとストーリーも、事件性のある衝撃度は、映像によって壮絶で衝撃的なシーンとしては、現実的な物語の素材として、恐怖感をあおるシーンではあっても、嫌悪感にはならない映画鑑賞の効果性は高くあったのだと思います。
私の脳裏には2回ほど見た別々の映画でのシーンですが、その頃の時代、熊の生態について、詳細には解明されていなかったのでしょう。
熊の生々しい闘争的で逃走的な表現は、どの映画も似ていたような気がしていて、大方詳細な記憶は残っていないにしろ、思い出せば、ひどい頭痛に見舞われる。
もしかして、映画に感化されてしまって、手出しのできない、受けつけることのできない「くま」像が出来上がり、「クマ」という音声を聞いただけで、身体が硬直するという素早い反応が、癖になっていたのかも?

であったにせよ、「森のくまさん」の歌を聞けば、振り付けまでして、可愛い熊さんを体現した可愛いダンスを踊っていた私は、ほっこり熊さんのポーズ10体くらいは、色鉛筆画で描いたりして楽しんでもきたのですけどね。

年齢を加え後期高齢者になった6~7年ほど前、従弟夫婦と3人で、高槻市にあるポンポン山に登った時、その登り口から既に「クマ出没に注意!!」の看板が、10mおきに掛けられていて、山中、かなり緊張しながらの登山。
こんな山でこんな看板ってどうなのよ~!?
白む気持ちに支配されないよう、殊更大きな声で話しながら山深く登っていきましたが、山頂で良き景色を眺め、ゆっくり弁当を食べて、何事もなく無事に下山し終えたのを思い出します。

が、それから間もなく、ここ2~3年は、クマ被害のニュースが多くなってきたので、急にまた、何故これほどに多くの熊が里山・街中に下りてくるのか?
熊による被害は多くなり、今年は特に多く報じられています。
痛ましく背筋がぞっとするニュースが多く放映されているのですが、この現実、こんなに悲惨で多くのクマ被害をどう受け止めればよいのだろうか?
と、この頃は、恐れをなす一方で、私は、他人事のような温度感でもって眺めているのですかね?(酷いですね)。

 

丁度、ラインニュースより、愛すべき熊の生態に関して、著述家・亀山陽司氏の著述を拾い読みしましたので、熊の特性情報を要約して以下にまとめてみました。

日本の熊の種類は、ツキノワグマ(本州以南に生息)と、ヒグマ(北海道に生息)の2種類で、ヒグマの方がツキノワグマより狂暴だという事です。
本来、熊は、動物を襲う事は多くなく、主食は野菜・木の実(蕗、桜の実、トウモロコシ)・昆虫であり、熊は基本的に警戒心が強く、他人に近寄ってくることは殆どないのです。
造林地のように、隠れる場所もなく、見晴らしの良い所であれば、熊は近寄らないのです。
(そういえば、高槻のポンポン山は造林のようでもあり何となく見通しのよいすっきりして雑木林だったかな?大袈裟に恐れることでもなかったのかな?)
しかし、ヒグマの危険性を侮ってはならず、不意に山道で出会い、ヒグマを驚かせてしまうと、襲われる可能性は高い。
そして、ヒグマの糞は大きく、他の野生動物とは段違いなので、熊の糞であることが直ぐ解り、糞を見れば、何を食べたのかも大方解るということです。
(最近の一連の熊捕獲のニュースにも、糞から人の肉片や頭蓋骨片が見つかったというのを聞いたことがあるように思います)

さて、こうも熊との遭遇件数や、残酷な被害が多くなったのか?

それは、山の中で十分な食糧が得られないから!!これが最近の山事情。
今の時代、これだけ山林が無味乾燥な住宅地に、開拓造成されたら、山菜・木の実のなりようがない。
木の実で熊の腹を膨らまそうとすれば、大量の数が必要で、特に秋口は冬眠に備えて蓄えなければならない。
(どれだけたくさんの食糧が必要か?想像しにくいが、そういえば、パンダは新鮮な竹の葉をしょっちゅう食べているけれど、あの竹笹にも色々な種類があって、パンダの好みも微妙に違っているようです。しかしあれだけしょっちゅう食べていれば、相当な量を運ばなければいけないようですから、毎日の竹笹が十二分にないと、多くのパンダは飼えないという事情があるようです)

少しばかりの熊情報を書き込んでみましたが、熊を恐れることなく+熊情報を得て具えてみるのも悪くないかな?

絵本の中の熊さんへの親近感 対 野性の熊を見た瞬間の警戒感、襲われた時の恐怖感は、相容れない感覚ではあるけれど、山郷に暮らす人々の「熊」への理解というか、共生意識は、優しくて厳しい眼差しがあるように思います。
山郷の季節季節の産物の様子を伺いながら、限りなく熊への愛情を注がれているように見受けます。
いつか、人間と野生の熊さんの共存共生しあえる(というか住分けて共存するという)環境が出来上がっていくのではないか?との期待感は、ものすごくあります。

私達が、無下に恐怖感に縛られて逃れ無き環境からの打破に、信頼と理解をもって生命を営む日がやって来ればと願っています。

今は秋。あるがままに語らい、咲くがままのコスモスの花を愛でれば

色鮮やかで、色とりどりの秋の花はコスモス。
風まかせになびけば、それがまた、赤・白・ピンク・紫・黄色の花が、しなやかに揺れ動く。
慎ましく自由で、切なくて可愛い。
醸すその佇まいが楚々として柔らかく、身体の深部までに流れてくる心地よさを感じてしまいます。
実際、コロナ禍にあっても、そしてまたコロナ禍が一段落したその後に於いても、楚々として風に揺られるままに咲いているではないですか…。

色とりどりに咲く美しい花と言ってしまえば、それまでの花の命。
否否!コスモスの花は、何故に美しく切なくて、きれいな詩歌が生まれるのか?などと絡んでみたくなりますよね。
秋はコスモスの花という誰もが知っている季節花であっても、飽きることはない。
眺めれば話したくなる私の話も、飽きることなく何度でも…ってな訳なのです。

コスモスの花は、細く繊細に枝分かれして、高き枝であれ、小さき枝であれ、不揃いな色・不揃いな背丈のコスモスたち。
風が吹けば、一斉に風にそよぎ、風になびき、花弁は揺れ、枝葉は風になびき、風に歌い、風に踊るという佇まい。
高原に群生しようが、野辺に咲いていようが、私達を爽やかに誘い入れてくれるのです。

誰だって思わず「ワオッ!! 綺麗!! 可愛い!!  爽やか!!  幸せ!!  泣きそう!! 切ない!! 」

そんな歓声が上がってくるのではないでしょうか?。

 

さて、コスモスのお話は、ちょっと中断致しまして、ここ最近にぎわせている話題と言えばこの話。を少し取り込んでみましょうか?

何だかんだと世間を騒々しくさせている「芸能社:ジャニーズ」の問題は、“如何にも”らしく喧々諤々の社会現象。
かような問題を引き起こした問題の根本は、ジャニーズという芸能大会社の最上層部の人(達)だ。
だがしかし…と思わざるを得ない、もやもや感が、頭をめぐりとても「うっとおしく」「空々しい」。
そこに映像が流される何事に於いても、(被害者の方々は別として)社会的に見た場合、この何十年間、問題を感知していながら放置してきた「情報発信社=マスメディア」や、解っていて乗っかっている芸能人も、しっかりと多くいるわけで、僅かな方々が、懸命の救助要請をやっとこさ表明するや、怒涛の如くうねりを増して「重要な社会問題」へと認識拡散したという、皆様ご存じの経緯があるわけですよね。

そして今、問題解決への対応が継続しているのですが、マスコミの報道・対応は何かしら、今尚白々しく感じられるのです。
私自身、内容的に詳細を知っているわけではないので、深入りなコメントを記して申し上げることはできませんが、この白ける感は、一人の思いとしてお伝えしても良いかな?との思いで書いております。

社名のジャニーズを改名して、一応、出直しを図るため、従来の社名を棄て、新たな陣容で新社名を標榜して「新社の出発」を表明しました。
しばらくは、多くの重要な問題・課題の整理、対応、対策に追われ、意思決定して行かねばならないプロセスは、多くの困難な課題に立ち向かい、そこには意見対立・路線選択の決定課題が、重くのしかかっていると思います。
決して安直な決定は出来ないでしょうから、何度も何度も繰り返し行われるのであろう検討は、多岐にわたるため並大抵にはいかないでしょう。
あまりにも多岐にわたる生身の人間を対象に、対応していかねばならないのですから、社会に叩かれもするでしょう。
問われるべき責任が大きすぎ、多すぎるように思います。

周囲の特にマスコミは、他人事に突き放して話題にしていくのではなく「マスコミの責任」はどうであったのか?
そこをしっかり、社会の重要な責任と役割を担っている組織として、大いなる社会的役割を示していただきたく願うばかりです。
私は、マスコミの攻め方は、狡いし怖いなあと思っている次第です。
ある意味、少なくとも社会の味方であるはず(と思っていて)、マスコミの検知力、探索力は、如何様にも発揮でき、解決への意見を具申する事も発揮できたであろうにと残念に思います。
マスコミや週刊誌の方々こそ、もっと必死になってお働きになって、建設的意見を伝えていただきたいと願います。

このようなブログ展開は、これまた、私としてはどうよ!!
とも思いましたが、コスモスの花咲く野辺を歩き、風の爽やかさとコスモスの花達の揺れ動く爽やかな群舞(というほどではないにしろ)、ゆらゆらしなやかに咲き生きるは、私達に仕切り直しの穏やかさ、もしかしたら我が身もそのように巻き込まれてしまうかもしれない危うさの同調感をもって、爽やかな芸能活動・芸能界の発展の歩みへと進めていただきたいと思った次第です。

ええ格好でもなんでもなく、何か社会の中に潜む魔物を、皆で対応して変革していくべきと思う次第。
一方的責任論を、今引き受けたばかりの(しかも芸能人として生きてきた)人達に追及しているようで、それ自体ちょっとおかしくないか?
芸能雑誌社、新聞マスコミ等も、やはりキチンと建設的な提言を交えて、社会的対応をしていただきたいと願っています。

私達一般人は、一生懸命働いて、僅かな娯楽の時間を思いっきり楽しみたいわけです。
一方的責任追及ではなく、マスコミの方々共々に、これからの健全な姿勢をご検討いただき、積極的な芸能社との交流を創造していただきたく思います。

付録:コスモスの花について
【四季語】
秋桜、おおはるしやぎく

【解説】
キク科の一年草。高さ二メートルくらいになる。葉は細かく裂け、茎はひょろひょろと伸びる。九月から十月にかけて白やピンクの花をつける。花弁が桜に似ているところから、秋桜ともいわれる。

【科学的見解】
コスモスは、メキシコ原産のキク科一年草であり、日本へは明治以降に導入された。花の美しさから、庭先や花壇などで栽培されている。花序は、ヒマワリと同じ構造で、中央に筒状花、縁に大きな舌状花が並んでいる。別名としては、アキザクラやオオハルシャギクとも呼ばれている。(藤吉正明記)

他人事ではない 医療界・介護界の労働人口減の現実!!少子高齢社会:労働人口の確保とAIという労働力との共存

最近、新聞・雑誌・TVなどは、日本の労働人口減は確実に進行中で、深刻な社会問題として特集されていて、また毎日、ニュースを見ていると、何かと高齢者の深刻で悲惨さを伴う問題提起なニュースが多くあるように思います。

次世代に繋ぐ希望的な未来への展望は儘ならず、一瞬、警戒心を高められてしまいます。がしかし、立ちどまって危機感を意識化することはなく、そのままニュースの流れに身を任せながら、やはり他人事にしてきたようで、今改めて反省な気を持ってこの文章を書いているのです。
日本の少子高齢社会は、著しく労働人口の減少をもたらし、社会全体が悲鳴すらあげるほど、人材不足の影響は大きくて深刻。
給料が高い・低いとか、綺麗・汚いとかの仕事ではなく、何しろどの分野においても、人材確保そのものが困難だというどうしようも動かしようのない、社会状況になっているというわけです。

私は、表記のお題で、医療界・介護界に焦点を合わせていますが、国全体の危機であることを受け止め、この問題の深刻さを意識して書かないといけないなと思って書き始めましたが、どうも記述の焦点が定まりきれないままに書いているように思われます。

労働人口減少の問題に関して、既に誰もが、その深刻さをキャッチしているのでは?特に若い方々のほうが、自分たち若者世代を強烈に意識していて、働き方の仕組みをリードされているのかもしれないが…。

労働人口の減少の前提は、1970年代半ばに、出生率は2.0を切って以降、1990年代には出生率1.5に低下し、その後も歯止めが効かず、確実に少子化が進む一方、既定の60歳定年制は、延長・改善されないまま(むしろそれまで一生懸命働いてきた人たちにとっては、老後の夢と描いたその後の生活の形や、余生の過ごし方に希望を託していたのだったが…人口の少子高齢化が進む事への危機の到来に関して、結構広報されていたと思われるが、危機意識の高まりにはならなかったという事なのか…?)

日本の未来の問題としては、既に2010年頃には、少子高齢化は確かな予測値(統計値)を捉え、危機の到来を防止すべく政策をとってきたことではあるが、有効な政策の一手を認識できるものではなく、流れのままに、国の平均寿命は順調に伸びて高齢者の健康寿命政策の徹底は結構順調に経過しているようにも思え、最近は60歳定年制が、65歳、70歳にまでも延長され始めているようで、場合によっては80歳にまでも延長している会社もあるようです。
社会は、若年者の労働不足が著明となり、歯止めとなる有効な手段がない中で、60歳定年制の改定・延長、健康寿命の延伸を図りながら、高齢者の労働力確保(人材の有効活用)に力を入れざるを得ない状況です。

この傾向は、私自身が既に当事者であるので、高齢者の就労の感想を述べるならば、「元気で生きている間は、やはり働けることは良きことだ!人生の終盤の生活に張り合いが持てる」と言う事にもなります(但し、労働時間の短縮と余暇の楽しみのバランスがお気楽に保証される事が前提となりますが…)。

確かに高齢者活用は、将来的な展望として、労働人口減の潮流を堰き止める効果になるのか?というと、簡単にそのような引き合いにはならず、少子高齢社会の歪みは顕著になっているにもかかわらず、有効な政策上の展望も引き出せず、若者の労働人口の減少・学生人口の減少、に関わる出生率の減少の解決の芽が一向に出てこない。
世の中、既に世界的には多様性の受け入れを主流に回り始めているが、その傾向を否定はしないが、多様性を容認する色々な事象に対して、私自身は、まだまだ構築しえないし、問題の焦点を合わせにくく感性が育まれていないような気がします。

日本の労働力人口とは、15歳以上の者で、就業者及び就業したいと希望し、求職活動をしているが仕事についていない者(完全失業者)の総数をいいますが、こうした社会現象を丁寧に見直すことも必要なのでしょうし、見直すというよりも、離職者・求職者の活用の方向で、有効な手段を考えていかなければならないと思い、世の中の見失ってはいけない財産を丁寧に掘り起こし、適正な教育を施し、簡単に見捨てる、捨て去る事なき、人材の育成を促していく必要があるといえるのでしょうか?

最近、凄い勢いでAIの活用が、本格的になってきていて、あっという間に、デジタル業界、放送業界、販売業界、そして医療・介護業界に浸透してきています。労働力不足を補っているということになるのか、業務の複雑化の緩和というのか、目に見えない、理解不能なまでのAI活用が、速いスピードで押し寄せ、実用化してきている事には驚きです。というか理解不能な速さで拡散・拡大しているのですから、違和感とか理解できなくて付いていけないとか、感想を述べている場合じゃなく、既にそのシステムに乗っていかざるを得ない。凄い世の中になってきたものだなぁなどと、のんびり感想は言っておれず、ひたすら、解ろうが解らないだろうが、AIの誘導・語りかけに乗っていかないといけないのです。

“AIが、労働生産人口を救う” そんな世界が出来上がってきたとき、医療・介護に携さわる私たち人間は、どんな生命観、価値観をもってはたらくことになるのだろうか?AIについて、何の知識もなく、理解不能な私が、今は、黙して、成り行きを見守るしか無いようです。が、もう少ししていつか、誰かさんや先輩たちと、こうしたことを語り合い、理解して受け入れていく時が来るのを楽しみにしているのです。

“子育て”の窮屈さ(ママのジレンマ)の在り処

最近の話。週刊誌?(新聞?)だったか「……ママたちのジレンマ」という見出しの記事が目に留まりました。本題の主旨は「日本には、社会で育児する という意識がない」…と断じた衝撃的な表示。解決されぬ社会問題と心得て読んだこの記事は、 旧くて新しい昔からの“あるある話”。そして私自身、記事と同じ場面に幾度となく出くわしていますが、不遜ながらママさんの在りようによっては、目にしなきゃよかったと思う場面もあり、ちょっと、おざなりな見つめ方をしてきた後ろめたさを感じたものです。

世の中、経済活動を活発にする景気浮揚策として観光事業が盛んになり、国内外旅行の手続きの簡素化・便数増・セット割企画等々、便利さ盛り盛りの観光施策が多くなりました。「自分の楽しみ世界」観が広くなり、経済感覚というか育児感覚も怖いもの知らずというくらいの「これくらいの事、普通」になっているように思えます。首の座らぬ生まれたばかりの(?)乳児を連れ、国外・国内旅行するはもう不思議でも不謹慎でもない。とにかく乳幼児の身辺用具(離乳食~オムツ~衣類など)は圧縮・ディスポ化して身軽に持ち運びでき簡便になって、旅行の簡便さ利便性は目をみはるばかり。小さい子ども連れ家族旅行は当たり前になっています。

ところが一方で、子育て中のママさん達の日常生活の現実はどうでしょう?まだまだ多くの理不尽で未解決な難題があるという事を理解してますか?という事です。

さて、“子育て中のママのジレンマ”の話に戻せば、大通りや路地の道を行き交う人々の多くは、子どもや大人に限らず、大声で語らいながら歩いたり流れを止めるようにのらりくらりしながら話し込んだり…そして、ゾロゾロとうるさく、時にけたたましい笑い声や甲高い声に、実にうんざりする光景に出くわします。人の往来がスムーズに流れていれば、毎日の事であろうと多少の停滞感を受けいれ(多くは普通に受け容れて)流れに乗じて歩きもするのですが、電車・バスの中(所謂、箱物の中)では、大きな声や笑い声、若者の甲高い声が行き交うと、とどまり知らぬ騒がしさや混雑さ感が増幅し、そこに、大きな荷物や乳母車が加われば、この混雑に何故?との無言の迷惑目線、わざとらしき声で「何でなんだよ」の呟きが痛く突き刺さるものです。常にそのような状況の中を潜り抜けて嫌な思いを経験しているママさん達には、気持ちが打ち萎れてしまうという嫌みな経験になるでしょう。が、これが長くいつまでも解決していないか、解決の目途が経たないままというわけです。そして本題の「ママたちのジレンマ」となっている解決できない難題が、そのままにして長引けば、「日本には、社会で育児するという意識がない」という問題提起になってくるのです。

私自身、残念ながら “わりと日常的にある話”が多くあったので、びっくりしましたが、長く改善されない現代の社会問題(少子化・子育て環境)だという事です。世の中、晩婚化、結婚回避、そして夫婦共働きの増加があれば、少子化するのは、日本だけの現象ではなく世界的に共通している部分も多くあるとは思います。夫々の国が取り組む“社会で育児”の在り方にはいろいろ方策が見えてくるものがあり、そこから知恵を学び、取り組んでいかなければならないのだと思います。そして日本は、核家族の時代から多世帯同居(住宅)へと積極的に取り組んでいくべき問題ではないかと思います。現状は、狭き住居が多く、大きな家や集合住宅は空き家となって朽ちていく状況も多くあるようで、保育園不足や学童保育の環境・設備と人材不足、これらの現状を考えれば、こうした問題が重なり合っているにもかかわらず、解決の動きが見えて来ないという事なのでしょうか?

ジレンマのあるある話の中で、重要な問題だと思う一つに、「混雑した場所でベビーカーを押す、混雑した路線バスや電車に乗車するなど、母親一人で、乳児1人ベビーカー+幼児1人連れ、あるい2人乳児用の乳母車を操作するとなれば、誰しもこれは大きな“ジレンマ”になるのは自明の事で、ママさんの悲壮感・孤立感を思いますし、これってホントに、心が押し潰されそうになります。

勇気を持って、「スミマセンがベビーカー移動を手伝ってください。」「ベビーカーを置くスペースをお願いできませんか?」と声を出しての救助を頂く意思表示をするのは、簡単にできるものではない。社会の理解が、そのように受け容れる雰囲気になってないと、なかなか言い出せるものではありません。現代の社会は、まだまだ寛容な受け入れに至っていないと思われます。ママさんが、児をベビーカーに乗せてマーケットなり保育園などの目的地に行く道程には、人ごみの中を通ったり、電車やバス時間に間に合うようにと急げば、慌ただしく小走り気味に乳母車を押して行くのを見ることがあります。人々に、「すみませ~ん。ありがとうございま~す。申し訳ございませ~ン」頭を下げ声掛けしながら急いで行く…。こういう時のママさんの心情は如何に?悲愴だろうなと…。

多くの子育て中のお母さんたちは、解決され得ぬ「育児の日常生活上の社会的ジレンマ」に、覚悟の日々を過ごされているという事を受け止めなければと思います。

私なりに想い出せば、外出の先々で、何かの所用で、乳幼児2人(または1人)を連れて、電車かバスに乗ってこられた親子・児に出会えば、乳児、幼児の目線を負いながら手を振ったり笑いかけたりをしてみます。当初は無反応、乃至はそっぽを向くのですが、たいていは興味を持つのでしょう。しばらくしてこちらの方に目を向け、目が合えば素早く顔をそむけ…を繰り返し始める(可愛いッたら、ありゃしない)再び応じてアイ・コンタクトすれば、照れくさそうにニタッとして…。やがて三度目の正直、たいていは馴染んできてくれる。知らん顔のお母さんも居るにはいるが、多くはにこやかに頭を下げて下さる。しばしの赤ちゃんとのジェスチャーコンタクト?をすれば、寸時の「私と赤ちゃん・幼児」対話を感じるのです。ママさんのお顔は、大概、嬉しそうで優しそうで穏やかな表情を返して下さると、私はしばしの時間を楽しむことができます。私の子育て社会参加は、まだまだこの程度。ママさんのジレンマの解決に至らないが、「あるある&よくある」ジレンマに、関心を寄せれば、少しずつほぐれてゆく手がかりが得られるのではないかしら?しかも誰もができうる接点を持てて、寸時の繋がりの善き時間ができると思うのです。

社会的問題解決の政治的施策が具体的に打ち出されることを祈り、知恵あれば発信して「ママさん応援隊」に絡んでいくことが大切だと思った次第です。

 

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8月半ば とんでも(ない)場所で コオロギと出会った

夏場になって、家の中に飛んでくる虫は、結構いるものだな…と、4階以上の高層マンションに住み続けて15~16年を経年した最近、意識し始めた。日常的には、ベランダや家内に植物を植えれば、小さな羽虫や時折にゴキブリ、訳解らぬ昆虫の迷い込み、時にハエまでもが飛んでいることがある。嫌だな!と思いつつ、面倒くさくは受け止めず流されてきたようです。

ところで、私は現在、5月半ばに新しいシニア群マンションに引っ越して、2~3か月を過ぎようとしていますが、次第に入居者が増えつつあり、知り合う人々も多くなってきました。一日に一度は利用するレストランや週一休みの温泉浴場や館内イベント、玄関先の散歩道など、生活の身近に交流の場が豊かにあるので、かなり嬉しい。頭の回転は、皆さんとの会話の交流に助けられているのかと思います。そんなふうに生活環境への馴染が出きてくれば、館内のあちこちを歩き回り、時間の流れに淀みなく従いながら、生活リズムが出来上がってくるわけです。

ある真夏の日曜日の夕方、ザ~ッと夕立が降りました。マンションの周囲は、木立の小道になっていて、無造作に茂る背の低い花木や雑草が、突然の夕立の滴を浴びてあたり一面は涼しくなって、温泉の浴場に一風呂浴びに行った時のことです。

浴室には、顔見知りにもなっている3人の老女の中の老若女達が、個々の洗い場で洗剤の泡にまみれて洗い流していたのです。私が入っていって洗い場に腰を下ろしてシャワーをかけ始めたその時、足元から何やらシャシャッと出てきたのです!!

「ウワッ!ゴキブリ!キャッ!」 と声を上げるや飛びのいた私ですが、「いや待てよ!ゴキブリではない!ピョンピョン飛んだから!」 と声出すや、既に先人の3老女は、私の声に反応して、排斥のシャワー武器で3方から放水してきたのです。

「イヤイヤちょっと待って!ゴキブリじゃない!ピョンピョン飛んだからコオロギだから!水は掛けないで!!」 VS 「イヤイヤ『そんなこと言ってられないゴキブリは嫌なの!』」  と容赦なくシャワー攻め! 「とにかくコオロギだから…!ここは私に任せて!何とかするし、コオロギをにがしてやりたいの」 そんな女の鬩ぎあう大声を交し合いながら、溝に落ちかけたコオロギを見つけ、私は風呂桶でコオロギの身の安全を確保したところでようやく、女性達も我に返り、「ホントにコオロギなの?ゴキブリだけは嫌いだから!だったら逃がしてやらないとね。」 落ち着いた会話になったところで、「あなたに任せるわ。お風呂場出口の扉を開けたら、直ぐ草むらになっているからそこに放してやるといいわ。準備できたらお手伝いするわ」 と優しい眼差しの言葉。4人の老女は、フッと我に返ったとたん! アハハ~ッ!!何てことよ~ッ!可笑しいったらありゃしない。ゴキブリでなきゃいいってね~!何てことよ~!怖いこと言うね~!でもゴキはきらいなのよ~!

“夕立”と”温泉”と”コオロギ”と”4人の美女”の話は、他愛もなく大笑いして終わりとなりました。

ゴキブリの羽の茶色は、あの艶やかさをもってむしろ美しい茶色の羽。家の中に居て逃げ足が素早く宙を飛ぶ虫故か、人様には決して好かれることない忌み嫌われ虫。

一方、コオロギは、家の中に居て色艶は決して良い羽色とは言えないが、3種類の鳴き声をもって、多くの人様たちを癒しに導きまた、ピョンピョンと飛び跳ねて親しまれ好かれている。この差異を悲しむべきか…?どうしたものか?と思うけれど、昔から受け継がれて今日に至っているようだ。

感性の差異か?!簡単には片付けるのも可哀相な気がしている。

しかしながら、コオロギへの愛着は、夏の終わりから秋の夜長に耳を傾けたくもなり…というわけです。鳴き声はオスのみであり、メスを呼び寄せる求愛の時と、縄張りの主張の時に鳴く。この鳴き声が、美しい高い波動を出すのだと言われれば、なるほど~と納得もしてしまうのです。

 

コオロギについてはスピリチュアルな意味の暗示があるそうな!

コオロギの鳴き声は、とても美しく特徴的で、高い波動をだしているのです。この高い波動は、高い意識レベルのネットワークを作っていて、その為、コオロギの鳴き声を聞いていると、頭がすっきりしたり、冴えたり、ストレスとなる考えを静める傾向があるのだそうです。面白いことに、コオロギが鳴くときは、自分の中のエネルギーを、どのレベルまで波動を上げて実現化する事ができるか、ベストを尽くしてチャレンジしているそう。

中国では、コオロギは 「成功と成功をクリエイトするマインド」 という暗示があるといわれており、アメリカの先住民の間では、「コオロギは成功をもたらす信念」 といえる象徴だと。

以上、コオロギのスピリチュアルに関しての文章は、真理の扉を開く時 第142章 概念について 5mmくらいのコオロギを見つけた:コオロギからのスピリチュアルメッセージ「心と繋がる1つの思考」文から、要約させていただきました。

 

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