凍蝶

冬のエピソードをネットで調べていたら「凍蝶」という言葉が出てきた。

これをなんと読むべきか? 
イテチョウとは何番目かに呟くように口にしたが確信して読めなかった。
俳句の世界では、時折使われているらしく、知る人ぞ知るというわけです。

「凍蝶になまじ薄日のさしにけり」(成瀬桜桃子作)

季語辞典によると、そのほか確かに20句以上は紹介されている。
俳句に親しむ人たちには「凍蝶」とは、
何かに止まったままでじっとしている蝶を見て、
寒さに耐える蝶々に感動したり驚いたりして使われるらしい。

自然観察家に言わせれば、実は成虫で越冬するチョウの種類は多くあり、
それらはよほど気温の低い時など以外は、わりと活発に活動しているのだと。
近年の温暖化が進み、暖冬であることが多くなったため、そのように目立つようになってきたと。

一つの季節的な現象をどのような角度から眺め感知していくかによって、
異なる観察眼が生まれるものですねえ。改めてそんな思いを強くしたものです。

それでは何故蝶の羽は美しいのか?
という疑問に進めてみましょうか。

矢島稔・宮沢輝夫(共著)によると、昆虫はもともと熱帯原産の生物で(これなんとなくわかる!)、
少しずつ分布地域を広げていったと考えられ、虫たちが四季のある場所に到達し、
冬越しの問題に直面した結果、種類ごとに最も死亡率の低い
越冬スタイルを確立したと考えられるらしい。

美しさのキーポイントは
「熱帯原産と過酷な問題への挑戦と越冬スタイルの確立」
ということになるかしら?(キーワードが長すぎる?)

医療介護の現場は、多様な人間関係現象がうごめき、感動、驚き、悲嘆、喜びなどが交錯します。
加えて、命をつなぐ現場である故、冷静な角度から
公平な判断・洞察する能力が求められるのですから、
それぞれの立場の人々と広く早い反応で活動していくことですね。

情報収集で得た大切な真実を見逃すことなく、
そして英知を生み出し、それに合うスタイルを確立すれば、
私たちの働きは輝きと存在感を増し感動を分かち合えていくのでしょう。

(まあしかし、多くの人々の世話を一時の間に同時進行しなければならない謀殺現場で、 
 情報収集と速やかな分析、行動に関して、冷静に対処していくのは難しいですよね!)

しかし、時には真剣に観察、科学的な手法で状況把握し、時には情緒的な感知で優しく受け止め、
冷静に情報発信をして現象の洞察性を高め、共有化を図るための表現をしていきましょう。

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2月は何てショートで清かで華やかな月だろうか

二月(如月 きさらぎ)、
この月を春到来と感じさせる温度感が華やぎのある月と感じさせてくれます。

華やぐといえば、二月の花。この月の花を挙げるとしたら、
あなたはどのくらい花をいい当てることができるでしょうか? 

私もちょっと挙げてみたところでは、ご覧の通り!
(みなさんも、遊んでみてください)
梅の花、福寿草、菜の花、クロッカス、蕗、花韮……

3~4月の花も入ってしまったかな?
ちなみに2月のイベントも結構あるので挙げて見ましょう。

節分(2/3)、立春(2/4)、針供養(2/8)
バレンタインデー(2/14)、雨水・春一番(2/19)

さて、ノンちゃんの風呂場は、
浴槽に身を委ねながらお月様が見えるのです(入浴時間が問題だぁ~)。
いつもは夜風に吹かれながらお月様を愛でますが(それで?どうなの?)
冬場の月愛で(ツキメデと略読みしてください)は、風呂場にてということかしら?

そこで何思う?ってなことですが、
とてもリラクゼーションの効ありて、ついつい口づさむ童謡があるのです。

ナコちゃ~んて 呼んだの だぁ~れかしらぁ~
まぁる~いまるい~ お月さま~
ほ~らほら そうかもしれないわぁ~
おそら~で にっこぉ~り 笑ってる~

とても風呂場響きがよくて、優しい声清らかな声で歌えるのです。
月々の月を少々感傷に浸りながら眺めていると、季節折々の月相が感じられるのです。
感傷的に見わたさずに宇宙的な幻想を巡らせれば、
夢、希望、信頼への銀河鉄道列車に乗って旅することができるでしょうに…。

ところで月の視直径は、腕を伸ばして持つ5円玉穴の大きさと、ほぼ同じであると言う。
地平線近くにあるあの大きく見える月の場合も、小さな月と同じように
5円玉の穴にすべてが収まってしまうというのですから、一度試してみてください。

宇宙的な規模の空の星たちも、まんまと5円玉の穴のなかに収まるのですから、
地上に生かされる人生の旅で出くわす、
私たちの医療看護・介護の仕事上に降りかかる困難や悩みは、
時の流れを経ながらちっぽけな出来事なのでしょうか?

現場での悩み,不快、不都合に立ち向かうべくは、
心大きくして、乗り越えていく勇気に変えていきましょう。

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愛の力

愛は石のように、一つのところに留まりつづけることはない。
風のように雲のように空気のように移り行く。

勿論「こうあるべき愛」を語ることはしたくないし、人の道程に懸かる愛の行方は、
結構その人の愛思想を変遷させていくように思われるから。

お互いに愛を育む信頼関係の中で約束したことであっても、
約束に向かって歩みだしても双方の経験値は異なり感情や思考(志向)が形成されていく。

その時々に愛が確認しあえるつながりが継続されて、
生じた異なる感情・思考を受け入れて調整されていくならば、
愛は一つのところに留まりつづけ強き愛を育て上げていくのかもしれない。

命の尊厳性にまで踏み込んでくる愛の力とはいえ、裏切りとか破局とか妬みは、
結構つきまとう愛の姿でもあり、疲弊する力が大きく働く。
愛の代償というべきことではなく、
「常に痺れるほどのエネルギーが注がれる」のが愛というべきか?

何が語りたかったのかと言えば、実は先日、
レ・ミゼラブルのミュージカル映画を観てきたのですが、
その余韻がまだ頭に残っていて、「愛」の証がどのような形(現象)で
示されていくものなのか、なんてことが頭の中を巡っているのです。

愛をモチーフに語りつがれるべきものはたくさんある。
人々の生活や社会に生きる人々のあり方を見ていると、
なにが良くて何が悪いか裁けるものは何もないのではないか。
愛はそのように人が生きる根源の力であり、人を奈落に落とす力であり、
凄まじいエネルギーのマグマであり、希望であり罪と罰であり・・・、
なんてなことが頭の中を巡っていました。

そんな折、今日(毎日新聞:1月29日付)のコラム欄に、
久々に徳永進先生からの発信がありました。
2001年に鳥取市内に開設したホスピス「野の花診療所」院長さんです。

http://homepage3.nifty.com/nonohana/

私たち医療・介護に携わる者にとって、
命の終わりと向き合うのは珍しいことではないが、
先生は死に出くわす世話をする家族の「おろおろ」も含めて、
いのちに「初めて」は無数に隠されていると。
(中略)
死の時、人は「アリガト」「悪いなあ」と口にする。握手をする。目で何かを追う。
そうして最後の息を宙に返す。返しながらどこかへ帰っていくようだと。
(後略)
そして、もう少し分かる日がくるまで診療所を続けてみようかと。

先生のご活動は知る人ぞ知る、
先生の深い愛のまなざしがあり、その語りだけで癒されます。

先生の著書に「野の花のホスピス便り」(新潮文庫)があり、お勧め図書です。
是非一度、ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」もご覧になってください。

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発想の根源

1月17日、阪神大震災発生から18年を迎え、当時の記憶が呼び起こされました。
まだまだ、深い傷から一歩を踏み出せないでいる方々が多い現実があります。
それでも少しずつ閉ざしていた口を開いて私たちに語りかけてくださる方々もおられ、
悲しみからの開放への一歩を踏み出してもいらっしゃいます。
大災害の被災を蒙った方々への思いを新たにしたいものです。

さて、改革・挑戦・研究…これらの言葉にかかる発想の根源はいかに??

医療・介護の分野をながめると、どんな思想が構築されてくるのだろうか?
私はとにかく研究・考案する人たちの感知力とか発想力とかに参ってしまう。
それらは私には到底できっこない発想ではあり、うらめしくもある。
何でそんな夢が描けるの?

日常生活の営みに不思議を凝縮した観察の目を凝らし、
テーマ(主題)に思いを馳せれば、夢とか発想への具現化を試みるという
飽くなき努力と挑戦と忍耐を重ねていく力がでてくるのだろう。

発想の根源が、形となって一世を風靡して(公表されて)
初めて「意外性」に気づかされ、驚かされ、恐れ入って喜びが創出される。

まさに、医療・介護の世界では、誰もがその生命維持の過程に、
痛みや苦痛、不自由さを伴っている。
そこに発想の根源があり、誰もが使いやすい
「モノ」や「サービス」を考え、喜びを創出しようと挑戦する。

例えば、痛くない注射、血管を縫い合わせる技術、四肢の筋肉麻痺を支える部分ロボ、
補聴器、iPS幹細胞の多角的対応など、もっとたくさんありますよね。
(一度ちゃんと調べてみますね)

これらは、痛みや苦痛、不自由さへの発想は、そこからの解放であり、
「モノ」「サービス」からの必然的な生命維持の思想であり、
大いなる希望の夢(福音)となっている。

かた~いお話になってしまいましたが、私たちの医療・介護の世界は、
感知力と観察力から可能性を導き出せるし、
そこには得も知れぬ希望の夢があるってことなので~す。


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高齢者の青春ひとときの話題とは?

「彼女(妻)は元々細身で背丈ある身体ではあったが、ついこの間、ふと風呂戸を見てみたら、
すりガラス越しに写る彼女は、あやふやな体つきで小さく、
動きに力のない骨だけが緩々と動いているようで、まるで幽霊のように見えた。
お互い老いを意識しつつ、動きの鈍くなった仕草や物言いに、
あけすけにけなし合いながらも生きてることに感謝してきたし、
小さく曲がり細り行く姿勢にも当たり前のように受け入れて何の不思議もなく、
夫として妻として二人で生きてきたのに、その瞬間、自分の目を疑った。
こうもあからさまな変化に気付くこともなかったのか?」
と、80歳の男性は、しみじみと、しかしなんとも受け入れ難い現実の驚きを語った。

実はその日、久しぶりに80歳の男性、75歳の女性、
68歳の女性が3人揃って昼食会を持ったのであるが、
そのときの会話の始まりである。

妻なる女性は、認知症の治療を受けているが、私たち女性二人などに会うときは、
小さくなった体の背を伸ばし笑顔でご挨拶をするという従来の気丈な良妻さん。
高齢者同士の夫婦だけの生活は、長年住みなれた家に対しての
思い入れと息遣いや動作があるだけに、
いかなる不便が生じようと住処を離れ難いようだ。

浴槽の縁は高く足を持ち上げなければ入れない。
浴槽内と洗い場に足台を設置して自由の利かなくなった動作を
補正してはいても体の衰えの方が早くご苦労が絶えない。

生活動作の動線は短くなる一方のその空間で、
不自由さの進行を受容れるしかない諦め?に疑問を持つことはない。
高齢者の夫婦像が現実味を帯びて、高齢同士のよしみで始まった会話は、
友好的なランチタイムでの語らいとして、内容の重さに左右されることなく、
老いの現実感を覚悟したように素直に話が弾んでいったように思う。

それでも女二人が、気楽にアドバイスする生活の知恵や工夫に対して、
夫なる友人は傍にある紙ナプキンを取り寄せて書きとめていた。
穏やかな動作と微笑みの語らい風景ではある。
はばかることのない高齢者の青春のひとときではなかっただろうか?

さて、2012年の暮れも押し迫り多忙な時間をお過ごしのことと思います。
猫の目線をご愛読いただきありがとうございました。
2013年も引き続き話題提供をして皆様に、
お楽しみいただけるブログ展開をしてまいりたいと思います。
みなさま良きお年をお迎えくださいますように。

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原発はエンドレスな問題

「原発」

この問題、どう考えてみても良き終結を持って
使い切ることのできない不遜なる問題ではないだろうか?

原子力そのものへの科学的技術の進化は、
「安全」への誘いであって良いけれど、
原子力爆弾が象徴する「破壊」への誘いはいかがなものか?

2011年3月11日の大震災による
安全神話の崩壊は考えもしなかった不慮の出来事。
しかし、私たちは決して、身近な生活圏の(人口密集地の)中に、
原子力発電所を建てようとはしない。
警戒心あらわにして反対を唱えるし、安全は神話だと言い切るに違いない。

原子力発電所の立地条件は、色々に多方面からアセスメントされての立地ではあり、
科学的で未来的に公益性のある最大公約数の
OKアセスメントのバックがあってのことではあるけれど、
そしてまた、私のような知識の程度では計り知れないが、
高度に立証できる安全科学と利便性が融合しているのであろうけれど、
それ故に表面化されず、もみ消しになってしまう知識は、
不慮を予測しながらにして死に体の犠牲になってきたのだろう。

今にしてこんな風に思うのもどうかという話だけれど、
単純に考えてみても、使用済みの核燃料の貯蔵はまもなく世界中が満杯になり、
再処理をしても核のごみとして残る混合酸化燃料は
まったくゴミでしかなくコンクリート詰めにして、
地球のどこか地中に埋めると言うのだから絶対エンドレスなのだ。

こんな風に考えめぐらせていると、私たちの医療環境にグッと思い当たる。
施設内に小規模原子力(放射性物質)を携え
公益性十分な人のお役に立つことを提供しているのを思う。
日常茶飯事の検査・治療としての認識深く、
何の不便・疑問も感じずに(とは言い過ぎかな?)現代医療の先端を走っている。

社会的資源として、確かに有益な提供なのではあるが、不遜にならず謙遜に、
検査治療の放射性物質は、
どのように安全に準備され施工され安全に保管されているのだろうか、
身体に及ぼす影響はいかなるものなのか、
ここで生じた廃液はどのように管理され、どう処理されているのだろうか。
そんなことを考えてみてはいかがだろうか?

世の中は今、衆議院議員選挙が始まったばかり。
争点はまさに脱原発か否かではあるが、問題ありすぎて、簡単には断じて語れない。
ほんとに難しいねエ!!

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老いを語るにはまだ早い~って思う理由

齢65才を過ぎてくると、体全体のあちこちから
「もゥちょっと、体に優しく体を鍛えて、せめてもの錆び磨きをしながら、
老いの領域をゆっくり味わっていっても良いんじゃない?」
ってなメッセージが伝わってきて、
ほんとに若いころと同じようなスピード感で
立ち居振る舞うことができないのを思い知らされていく。

どこか危なっかしげな動作を意識して体が縮み
どこかにキリっと瞬時の痛みを感じて顔を梓からめ、
ま、別になんともないわ、と普段の私の動きに整えながら
やんわりと用心しながら行動しているのを感じるようになっている。

これまでの人生をどう生きてきたのか?
多かれ少なかれ、しがらみの中に生き、揉まれ揉まれて強さを獲得し、
ある意味、波乱万丈の日々を送ってきたようにも思うけれど
過ぎてみれば優しさも伴って、紡ぎだされた人生を感じることがある。
失敗や困難に泣き暮らし、夢破れて目的地に辿る道は暗闇に消えて
自分自身を認めてやることもできないで、小さく硬く固まってゆく。

でもネエ、女人は谷底に落ちこまないンだよね。

深い淵の何処にしがみついて足場を探るのか解らないけれど、
泥沼から這い上がるパワーを行使している。(もしかしたら形振りかまわないパワーかも)
考えてみれば、結構道草を食って、あわよくば損しないで楽しい味わいをさせてもらって
儲かりものをした気分で、目的への旅をしてきた(のかな?)ようにも想う。

何かしら?ノンちゃんはマシュマロ人生のようで芯を語るのが照れくさい。
老いを語るには、まだまだ早いように思われる。
ご高齢の先人達が語る人生観には、的を得たその人ならではのコア(芯)性があり
安心してその言葉を受け入れることが出来て私たちの心にピカッと光る。
先人たちが投げかけてくれる言葉に関心至極することが多くなっている。
老いぼれず、慌てることなく人生を楽しみ優しい人に進化していければ良いかァ?

道草する余裕はないけれど、悠然と時間を楽しめれば人生を飽きなくて過ごせる
と思う此の頃。人生訓の達観ムードを漂わせてしまいました。悪しからず!!
お若い皆さん!失敗や困難は、後になって人生の楽しみに変えてくれます。
大いに道草をしながら(楽しみながら)人生の目的への旅を続けてください。

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秋の物語

10月中旬のTVニュースでした。
人工で凝らした小樽運河に大量の鮭が産卵場所を求めてやってきた。
流れに抗して、厳しい段差上りをクリアーして、ようやくの産卵場所へ。
ところが、人工の河道(コンクリート道)だけに、卵の受け皿となる石や
産卵を促すでこぼこ岩が無く産卵に適していない河。
ようやくの末に産卵するのだが…。
産卵しても、卵たちが散乱してしまうという惨い映像でした。

北海道の友人の、レクチャーによると、
稚魚を放流すれば、鮭はそこに帰ってくる習性がある。
従って、ドブに鮭放流をする者は、鮭殺しであり、
加えて自然愛好者ぶるから始末に悪い極悪人。
鮭は孵化したところに回帰する。

運河に放流した鮭稚魚は余市川で捕獲、人工授精・孵化した。
何故、運河鮭は余市川に帰らないのだろうか?
この鮭たちは、余市川孵化場からトラック水槽で放流先に運ばれる。
そこに着けば、水槽からバケツに移され、
さらにコップに移されて幼稚園児などが放流する。
運河鮭は、このコップを捜しているのです。
鮭は、川から海への経路を正確に辿って母川回帰する。

海・川・季節の風物に生きる鮭よ。
愛おしい鮭よ。
心に潤いをいただきありがとう。

さて、秋を愛でている間もなく、このところ急な冷え込み。
紅葉全開の山々や街路樹は、もう既に落葉樹となってそこここに降り積もっています。
クリスマスソングの流れの中で、風に吹かれて、山の樹、街の樹は冬支度。

皆さんにとっての秋は どんな秋でしたか?
名付けて、あなたの秋=○○○の秋=を味わい尽くしてください。
そして、患者さん、入所者さん、友人に、あなたの秋物語を話して見て下さい。
心が温かくなってきますよ。

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ペコロスは小玉ねぎの愛称

『ペコロスの母に会いに行く』

このマンガ本が実に泣けて笑えて切なく、
身近に響く漫画だから是非一度読むべしと。

既にリタイアして久しい真面目女史からの熱心な勧めに、
早速、最寄の本屋に出向いた。…Zzzz~…!!
「売り切れてお取り寄せしないとありませんがどういたしましょう?」の声に
「ありがとう」と手を振って店を出て、運動がてら軽快な歩きを心がけて大型書店へ・・・。

入り口に用意されているPCで在庫状況を調べたら「現在15冊在庫あり」。
書庫場所は、大きな店内の医学書関連の壁側書棚、と表示してあり、
大きな店内を目通りさせて目的の場所付近に直行。

ところが、付近までくると灯台下暗しっていうのか、
「医学書関連の何処を探せばいいのよォ?」と急にショボケてしまい、
近くで仕事していた女店員さんに助けを請うて仕入れた次第。


まあぁ!
最初からはまりましたねえ。
(4コマ漫画のセンスってのか、ユーモアの粋ってのか・・・)


ところで「ペコロス」って何?何故?
余談を追加するならば、ペコロスとは小玉ねぎ、プチオニオンのことで、
3~4cmほどの大きさで、料理のシチューや
ポトフジャーマンポテトを思い出すと誰もが「あぁ~」と解るもの。
ただ、それをペコロスというのは如何にや?
名称は、日本独特のもので由来は不明らしい。

本題に戻って、「ペコロス」って誰のこと?
それは作者自身がつけた愛称とのこと。
慈愛に満ちた愛称だよね。(ペコロスではなく大玉ねぎ頭に思うのだけれど)
愛すべき優しい我が息子の感触は、可愛い小玉ねぎ=ペコロスのハゲ頭。

緩やかに進む認知症の母親へのまなざしが、
人の生業の巡りというか輪廻性というか、
母の記憶の行き先がこの世にいない人々への交わりであり、
限りなく慎ましやかに夫と娘への思い。
私たちが忘れかけていた記憶を呼び覚ましてくれ、
人間回復へと導かれるような、
ゆったりとほっこりと沁み入る可笑しさを味わうのです。

認知症の母は、可愛い幸せの持ち主であり、その持ち主に、
「ボケるとも 悪か事ばかりじゃなかかもしれん」と言わせている作者の
イマジネーションとユ-モアが「これもまた確かな介護の形」として
認知させてくれるのです。

お勧めです。

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秋からの贈り物

マキ(槙)の木は、母の好きな木でした。
なぜこんな地味な木が好きなんだろうと
子供心に不思議な不気味さを感じていたものです。

我が家の常緑針葉高木の樹はイヌマキ(犬槙)。
ほんとに背が高く上のほうに枝葉が茂り常緑とはいえ深緑色。
緑っぽい実が秋半ば過ぎから赤らみ、
きれいな朱色に変わりながら暗紫色に色づいていくのですが、
まさかその実が食べられるなんて…??

私はこの世に生まれて60数年も、全く知りませんでした。
~皆さんは、ご存知でしたか?~

イヌマキ → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%83%9E%E3%82%AD

母は槙の実を食べようとはしなかったし、2~3年に一度は高野山参りをしては、
高野槙を持ち帰るなどしてましたから、
私は「槙」とは仏様にお供えするものと認識して不気味だったのです。
赤い実が美味しそうだという関心に高まることはなかったのです。

ごく最近、槙の実がほのかに甘いグミキャンデーのような食感であるのを知り、
早速服部緑地植物園に行って、園内のボランティアさんに説明方々、
案内をしていただき、イヌ槙の実とご対面させていただきました。

なんと!針葉が出ている裾付近に、可愛い緑色の実がくっ付いていて、
試食とはなりませんでしたが、なんともいとおしい昭和の実に感じ入りました。

秋は、植物の穂が実る時季。稲穂、ススキの穂、吾亦紅、紫式部、萩の花、
何しろ秋の七草に始まる豊かな実りを送ってくれるのです。
ちょっと淀川べりを歩きながら、緑地を散策しながら、どこかの町に足を伸ばしながら、
そこそこにたたずむ草木に優しく目を注いでみれば、
秋からの自然の恵みを感じることができるでしょう。
秋の実りを糧に、きっと脳の働きが蘇ることでしょう。

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