看護師の『現役』と『影法師』

サッカーの三浦和良(サッカーの元日本代表FWでJリーグ最年長のJ2横浜FC)さんは、44歳現役選手。子供を持つ親父でもあるが、執念みなぎる風でもなくテライなく坦々と自分の出番指名に備えている。

「何故引退して、コーチや監督になる道を選ばないのか?」
の問いかけはどうやら愚問のようだ。

「限りなくサッカーをするのが好きだから」ということらしい。
「サッカー選手に求められる身体機能は若い選手にはかなわなくなってきている。しかし、自分が選手として出る場がある以上、価値ある戦いは衰えず発揮できるし、プレーしていて楽しい」と。
これだけのことを温和に言えるところが素晴らしい。

ならば看護師の「現役」ってのはどうなのだろうか?

考えてみると、確かに瞬発力(即応力)は20代半ばと40代半ばでは格差がついてくるが、加齢と共にキャリアを積めば、一定の技術力は水準を維持し、洞察力・察知力に磨きがかかるなど進化した力を持つ。

つまり「技の手際よさ、素早さにかけてはベテランの力を発揮するが、新しい技に対しては若いひとたちには適わない適応不足の感は免れない。

しかし、そんなことよりも、医療現場で看護し続けていることが「看護が好きだから」と言わしめて、看護師現役を温和に頑張っているのは現実的な話だろうか?看護師は医療現場で管理立場でない一スタッフとして、また在宅看護師として、限りなく、どのくらいの年齢まで働けているのだろうか?

助産師の80歳現役ってのは時々に知る機会があるけれど、看護師さんはまだ聞いたことがなく、お目にかかりにくい。どんなところでどんな現役看護師として貴重に働いておられるのだろうか?

どなたかそんな貴重な方を紹介してくださいな。私たちの看護師仲間が、その資格を持っている故にそこまでも社会に貢献できるという深いい話がここに集まれば、決して「影法師」でない現実的な可能性ある力として「一つの光」が見えてきませんか?

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患者と医療者は「お互いさま」の安らぎの中で

看護師現役時代に考えていたことがあります。

病棟で新しい患者さんたちと出会うたびに、
「この出会いって人々がどうつながりあってこの場所で会うことになったのかな?」
「ここでの生活上のつながりは個々の患者さんの生き方として
どのように変化(進化)するのだろうかな?」
そんな好奇心があったように思います。

病院での患者さんとの出会いは、根源的には「生命の維持」という欲求(希望)があり、
患者さんと看護師は極めて近い関係になり得ますよね。
看護師は当然のごとく、プライバシーを尋ね、患者さんの皮膚に触れ、痛む箇所を直に触り、
口の中を観て、体を清拭して、陰部洗浄して、浣腸もしてなどなど、
看護師に託された身体上の観察・処置をしていますよね。
これは極めて非日常的な出会いで、看護師だから為しえる関係です。

近年、病院や施設は、患者のプライバシーの保護や患者が治療の質を選択決定する
自由度の拡大や自己責任など、患者の権利として保証していますから、
患者さんの生き方、考え方が看護活動に大きく関わってきます。

例えば、診察を受ける患者さんが、特に女性の場合、
やたら脱衣する行為を嫌がったり、高齢の患者さんが脱衣にもたもた時間がかかるという場合、
Dr.もその辺は引き気味で、脱衣しなくともいいという了解をして診察するのですが、
私は、これは大変な省略医療であって、不平等な格差診療と思うわけです。

現役時代には、最近のご時世の配慮として受け止めていた節もあるのですが、
現役を離れ一市民として病院を訪ねる身となった今、身体上の異常を感じて受診すると、
問診と簡単な聴診、後は検査結果(採血・レントゲン・他)に任せられる場合が多すぎて、
受診の満足感にはならず、違和感を感じたりもするのです。
なにせDr.はPCと向き合い、PCの処理をするまで会話を中断したりして
顔を合わせる事はないのですから。

PCがはじき出してくれる診断能力も確かにすごいのですが、
このフィジカルアセスメントの技を駆使してくれる診察は、
この頃まったくといっていいほどなくなりました。

医療の現場で、医療提供者と患者さんの出会いの中で、緊急であれ慢性であれ、
生命の維持に関わる関係を築いていく場合、人と人とのつながりの欠如感は
生じさせたくないものですし、自分だけの安全を遵守するのではなく、
その人の立場に付随する規範をもって
「おたがいさま」の安らかな関係ってできないものでしょうか?

ノンちゃんのお正月の猫目線は、そんなところに関心を寄せてみました。


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新年明けましておめでとうございます!

昨年は史上に残る大災害が日本で起きました。
中でも、原発事故はエンドレスな最悪で深刻な事故でした。


2012年の1年は、常に「私は、今何をなすべきか?」を問いかけながら、
人として生きれば、幸せの風は思いのままに、吹くべきところに吹くことを信じて、
皆さまと一緒に、このブログを続けていけるようにと願っております。


そして皆さまの健康を願い、皆さまが良きご活躍されるようお祈り申し上げます。

患者さんからの「ありがとう」は元気を再生するエネルギー

看護を通して何かを成し遂げるとき、そこには職業に伴う責務があり、
ある意味不自由でもあり、全神経をその看護の技に注ぐのですから疲労感を伴います。

ですが、医療チームの一員としての看護実践ではあっても、
看護を展開する技は「個人の自己実現そのもの」であるというのが、
このブログ「ノンちゃんの猫目線」の基調となります。

看護師さんたちは患者さんからの「ありがとう」に癒され元気付けられることが多いようですが、
この一言の力強さを
“元気を再生するエネルギー”と捉えてみると
色々な感性の広がりがあるように思います。

私の看護経験のなかからちょっとエピソードを告白してみますと、
農家の笑顔がかわいい高齢の婦人が内臓疾患で入院をしてきました。
約3ヶ月過ぎたころには病状も安定期に入り、主治医から退院を勧められました。
彼女は入院当初、早く帰りたいと懇願していましたが、次第に看護師たちにも馴染み、
遠慮がちではありながらもよく話しかけてくるなど、良い関係になりましたから、
今度は「退院したくない!ここに居させて欲しい!」と涙ぐんで懇願しました。

家族関係に問題があるとは思えず、とにかく「具合が悪くなったらまたいつでもいらっしゃい」と
なんとか説得して退院することになり、退院の日には何度も何度も
「看護師さんありがとう!!」と涙ぐんでいました。

それから1週間後、この患者さんは再入院してきました・・・。
不安感におののくように、患者さんの人が変わったようなその状況に唖然としたものです。

この話には、いろいろとその後の分析があるのですが、
「ありがとう」の言葉が、喜びから無力感に変わったエピソードとしてお話しました。

ともあれ「ありがとう」の一言は、
新しい何かを生み出してくれる力があるように思います。

医療の現場で「ありがとう」の一言は、どんなときに発せられるのだろうか?
失敗の向こうに「ありがとう」の一言はあるのだろうか?
「ありがとう」の一言は、それまでの嫌な思い(負の思い)をすべて飲み込んでくれるものだろうか?

皆さんの「ありがとう」にまつわる深良い話(エピソードやご意見)も是非聞かせてください!


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ブログのお引越し

「ノンちゃんの猫目線」ブログを一新しました!
看護師さんに向けて、よりコアな情報を共有したいと思います。
このブログ上や"Face to Face"でのご相談など、看護師のみなさんと
コミュニケーションをたくさん取っていきたいですのでいろんなご意見お寄せ下さい!

よろしくおねがいします!

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