猛暑お見舞い申し上げます。

皆様~っ!いかがお過ごしですか?

ノンちゃんは夏にはめっぽう弱く、
あえぐ様な息遣いでこの夏場を耐え忍んでおります。

そんな折、何か琴線に触れる記憶の蘇りがあり、
ノンちゃんの目は、認知症の人を抱える家族に向かいました。

私自身は家族の中に認知症の人との出会いはないのですが、
認知症の人を抱えた隣人、友人を身近に見つめてきたことがあります。
家族の負担は重く、想像できないほど深刻な精神的・肉体的負担が
ひしひしと伝わるのですが、中学時代、
受け止める術を構築することなく見過ごしてきたように思います。

現在、少子高齢化・核家族化した中で
家族が抱える負担はより深刻化しており、
認知症の人と介護する家族との間での殺人事件に発展した
いたましい事件が多く報道されます。

小単位の家族が、持ちきれぬ(耐え切れぬ)負担を背負い、
社会倫理(社会規範)に基づくべくコントロール感を
支える力も萎え尽きるかのごとく残酷な日々を送る。

私の友人(男性)は父親をなくした後、勤め先を辞して10数年もの間、
言葉・日常生活動作の失われゆく母親と向かい合って生きる人生を選択し、
食事・着替え・入浴・排泄・体位交換などの世話に明け暮れる時間を過ごしてきました。
意思の疎通ままならぬ母親に対して限りなく声をかけ続け、
日々に示す母親の小さな動きを繊細に捉え、それに反応しながら、
ひとりの人間(母親の尊厳性)を大切に見据えつつ、
母親と家族であり続けるために「今この時」に眼差しを注ぎ、
繋がりを絶やすことのない生活をしてきました。

母と過ごした幼少時・青春時代の生活スタイルをそのままに、
クラシック音楽を流し、母の好きな歌を自分の声で歌って聞かせ、
合間には好きな書物に注力しながら、母の生活の基本動作を介護者として、
不器用なまでも許される形を駆使して築き上げた生活スタイルは、
よく聴けば、社会的資源を命いっぱいに活用しながら
小家族にかかる負担を切り抜けてきたわけです。

ですから、そこには色々と関係を繋ぎあう人々との間に、
納得できない主義主張のぶつかり合いも正直にあったようで、
人間関係の生みの苦しみもしっかり盛り込まれているのです。
お母様は90歳半ばまでを生きて亡くなられましたが、今、
友人は健康上不自由になってきた自分自身の人生をゆっくり楽しんでいます。

ノンちゃんは、"Make Happy"をどう生かせるかを考えさせられている此の頃です。

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪

急な坂道の住宅街の向こうで…

どんな坂 こんな坂 あんな坂 きゅうな坂 へんな坂 が、
豪奢な住宅に包まれて伸びている。

なにしろその坂道を辿って見なければ、
次なる道がどうなっているのか見通しが利かない。
こんな急な山面を開発する発想や如何にあらん、
そこに居住するという決断に至らしめる思考など、
ノンちゃんの頭には育ちようのない発想。

毎日の生活は、もっと手短に動きやすい
(日常的には体に無理な負担がかからない)
居住地が住み心地良いと思っている。
勿論、緑の柔らかな色彩がところどころにあるのが望ましく…ってね。

何しろこの急な坂道住宅街は豪奢な邸宅なのですから、
当然経済的には十分に満たされた人々が集うているわけで
私が小さな世界で心配しなくてもいい話。
高齢になじみにくい居住区だなあと、汗だくだく息ハぁハぁさせながら
坂道の向こうにある今日の目的の学舎にたどり着いたしだい。

7月14日、第9回日本高齢者虐待防止学会:共に支えあう虐待防止の地域づくり
に参加したのですが、看護師団体が医療・福祉・法律・政治
(地方自治体施策)の専門分野の方々を巻き込んで手作りのこうした学会を
開催できるようになっていることに驚きましたが、
時代がもたらしているタイトな課題に対して、幅広い問いかけ、
一堂に会して意見を交し合うダイナミックな学会に大切なエネルギーを感じました。

シンポジウム「東日本大震災と高齢者の人権擁護」に関して、
もう少し力強い具体的メッセージが聴きたかったと思うのですが、
あるシンポジストが「震災前の個別ケアが震災後には集団ケアになり
十分なケアができなくなった」と反省を述べられました。

これに対してあるシンポジストが、
「それまでに何をしていたか」が大事で、
集団ケアに変わったからできなくなったということではないのではないか?
多くの人々の支援がつながりあっていけば孤立化していくこともない。
社会的資源・財産を増やしていこう。
というような意見を述べられていたのが印象的でした。

ノンちゃんも、人の力を借りなければ生活の自立が
困難になっていく高齢への過程を受け止めて、
人の力を借りてそれでも生きる楽しみを
見つけ出して生きたいものだと思った次第です。

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪

看護師という職業の選択

看護師の就職の選択肢は、今や多岐に亘っており決して狭き門ではない。
むしろ一般社会から見て恵まれていると認識するべきと思うのですが、
多岐に亘る、というのが少々??マークがついてしまうほど、
就労環境(労働条件)が整備されていないように思えます。

とはいえ、看護師が足りない、といわれる背景には、
早い速度で看護の専門分化が進み、
より高度なニーズへの対応力が育成されてきた一方、
看護分野の起業規制緩和、看護師配置基準整備、
在宅医療の拡大充実など、医療対策上の施策があるのでしょう。

一看護師が(この場合特に女性の看護師ですが)、
結婚・子育てのライフサイクルを経ながら、
看護師資格をどのように活用していくのかを問われるとき、
必ずしも提示される就職が、サイクルニーズに合っていないとか、
職場実態からして安価すぎるという問題があるようですし、
エネルギーを要して働くのを好まず、
楽に働ける仕事内容を志向する傾向が根強くあるように見え、
少々残念な思いがするかな?

看護師の職業は「さまざまな人との出会いと交流」があり、
身近なできごととして展開しますよね。
さまざまな人と自分との違いを知り認め合う進化を、
新鮮な感覚として体験できるのですからドラマチックでもあります。
違いから生じる価値観のぶつかりあいは、凄まじく苦い体験とも云えますし
希望へのプロセスと認識できることもできます。

あなたはどのようなエピソードをお持ちですか?

就職の選択、人との出会いと交流。
そこから始まるその人(看護師)の行動は、
どんな化学反応を生み出すのでしょうか?

そんな風に考えてみると、看護師にとっての多岐なる選択肢は、
実のなる木として興味深い恩恵ですヨネ。
看護師復活への活路を見つけていきましょう!

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪

希望の芽

いきなりな話ですが、政治の世界は、どんな不況にも左右されず
高額なお給料をいただいて活動出来るんですね。
(大層に僻み心がニョキニョキ芽を出してしまいます)

要人の揚げ足を取り野次を飛ばして議論をストップさせて、
リーダーを幾重にも引きずり落とす技は、
生得的なものなのか?生理的な体質か?

無駄に時間を浪費しても理屈を述べれば、
人相はどうであれ議員スタイルはとれますしね。
実績を示さなくても、何ら責任は問われることなく、
給料を引かれることもなく、なのですから大した職業です。

国であれ地方であれ議員さんになれば、「先生」と呼ばれて日々を重ねると、
人相が悪くなってくる先生方も居られて、選挙で選ばれたという
それだけを拠りどころにして民主主義を豪語される場合が
多いように思われますが、議員の品格みたいなバイブル書でもあれば
そこに手を置いて厳かに宣誓もでき、身の引き締る思い新たになるでしょうに。

それにしても、日本は名もない普通の人々が、
不況を嘆かず悲しまず落ち込むことなく、
あのような東日本大震災にあっても、
めげずに希望の芽を育み再生を図ろうとする英知と活力を力にして、
楽しく地道に労働するという生命力に、
大した国民なのだと恐れ入る喜びを感じる此の頃でもあるのです。

6月の梅雨だまりには、こんなことをつぶやいて、
わが身にバシャッと滴を浴びれば、少々気分転換になるかしら?
(否否!真面目に考えながら生きよう!医療・福祉現場は、
生き様の命を繋ぐ働きのあるところなのだ!!)

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪

晩春の趣

5月も後半に入り、やっとのことブログ更新となりました。

5月といえば、その初旬より初夏の風物「目に青葉・初がつお」がぴったりの季節です。
旧暦では今年は5月20日で閏3月、晩春ということになる(5/11、毎日新聞:木語欄)というけれど、
まさにこの5月、寒さ続きで晩春を味わっています。

木語の中で、晩春の趣については、日本と中国の捉え方が違うといいます。

日本流晩春は、静かなFade out(フェードアウト=映像や音響が次第に消えうせていくこと)。
即ち、「春が行く」と考えるらしい。

中国流晩春では、「春が帰る」と表現され、
草木は色鮮やかな花を咲かせて「まだ帰らないでね」と、
にぎやかな春のフィナーレに春の気を引くらしい
(私なりに要約して、前出の筆者はそう教えてくださっている)。

世界中は、問題山積のフィナーレ(オンパレード)。
そして日本では、まだまだ原発の余波が漂い続け、震災後の復興状況も複雑にしているが、
人の心は困難な状況にめげず、晩春の芳しい味わいの季節を感じながら鋭気を湧き出させて、
それが生きる力にもなっているのではないかと。

晩春の味わい!
悠長なことを言おうとしているのではなく、晩春の感性について文化的な違いを知識してみると、
少し楽しく穏やかな心に触れるような気がして…。
これからは夏日よりに向かいます。皆さん!体調を整えて頑張りましょう。

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪

「W.S」たかが二文字の頭文字、されど偉大なる頭文字の楽しみ

「W.S」の頭文字Initialから、皆さんは何を想起されますか?
当社は、人材紹介・人材派遣のワークステーション(WorkStation)
まさにInitial「W.S」です。

この頭文字、探してみればこんな風に、
ポジティブで躍動感のある単語が並ぶ。

W:Work(仕事)Word(ことば)World(世界)Wide(広い)Wave(波)Win(勝利)
  Welfare(福祉)
S:Station(駅)Shop(仕事)Science(科学)Sea(海) Sing(歌う)Smile(笑う)
  Straight(まっすぐ)Signal(合図)Strong(強い)

こうして眺めてみれば、わがワークステーションの社名は、
やさしく力強く躍動する良き頭文字Initialで形成され、
看護師の皆さんを支える力にもなっている。

さて、W.Sイニシャルのもう一つに、ワークショップがありますが、
これは看護の現場、もっと大きく言えば、
医療・介護の現場においては大切な仕事領域ではあるなと思うわけです。

看護の分野に限っていうならば、
どの場面においてもチームワーク力の下支えがあってこそ、
個人の看護力が発揮できる仕組み(というかそのような医療の質)なわけです。

このワークショップ(仕事)は、
色々な側面の課題を持っていて一つ一つをチームで共有させながら、
看護の質、看護実践力自体を創造していくものだと思うのです。

何度も何度も問題提起しながら、そこに(現場に)命と向き合う患者さんがいる
という関心を麻痺させないために(医療ってこんなもの、
限界があると諦めてしまう日常性を生み出さないために)、
ワークショップ(チームディスカッション or チームカンファレンス)をする、
ということだと思うのですが、皆さんはどう思われますか?
看護はアートであると言い切るのであれば、
ワークショップは大切な看護力のエネルギーなのだ~!と。

こんなWord遊びをしながら、のんちゃんは、
ちょっとした発見に、つい叫んでしまいました。

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪

「it」が醸しだす想像力

「it」が導いてくれるImagination(想像力)は、
とてつもなく自由であり、何を想起しても恥じることもない。
まさに「私は私である無限の確かさ」に繋いでくれる、とノンちゃんは気づいた。

小さな子どもは、観念的な概念に縛られない分、
「it」に強烈な好奇心を持って、想像の世界を創り出していて恐れ入るばかり。

あの絵本(及び童話?)の世界は、
限りなく抽象的でありながら(あるからこそ?)個々の子どもたちなりの
具体的な空想の中で可能性を引っ張り出してくる。

恐るべし「it」からのImaginationは、
やっぱり子どものときから刺激されるべきだとつくづく思う。

ノンちゃんの癖は、とにかく何者(物)か解らない「it」に講釈を乗せたがって
世界観を小さくしてしまう(ってことは、いつもとおり変哲のない
奇想天外っぽさもない想像に留まってしまうってこと)。

後日、新聞や書籍文章内に、「it」の可能性にフィットする表現が出てくるが、
「嗚呼、悲しかるかな…、私もそんな世界を表現したかったのに…」と
後の祭りの嘆きやら、癪な思いを洩らすことしばし。
(そんなノンちゃん、あつかましいね)

今日は何故こんな話題をつぶやき始めたのだろうか?

最近、難治分野の医学系研究成果が多く発表されていて、
それは私たち人類にとっての(福音)朗報な贈り物と感じ入るのです。

まさに医学系研究に携わる人々の
「it」への疑問、関心、不可解へのこだわり、不思議への好奇心などの小さな感性が、
こんなにまで可能性を引き出してくることに感心する一方、
近代兵器となるコンピュータの力によって、即座に解明されていくというコラボレーションに
意味深き技を感じたのだと思う。

支離滅裂な文言になってしまいましたが、少々興奮気味なので、この編で終わりにしましょう。

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪

テレビを見ていると…

近頃、TVをつけっ放しにしていることが多くなってきている。
年の性にはしたくないがなんとなく音や動きがないと寂しいのである。
少々癖になってきているのかも知れないが、
TVのトーク番組やドキュメントに注視する傾向にある。

ビッグで華やかな成功人ではなく、普通に生きて、社会で活躍している人、
一途にその仕事をしてきた人たちの発する表現・・・
ウン解る!とても! その通りだ!あァ悔しい!

その人が自ら導き出した湧きいずる表現!
その顔、その物腰、その言葉のトーンすべてが、
その人に表出されてくる偽りなき表現!

そんな風な感動を頂く。

ただ、黙視で感じ入るのではなく、ノンちゃんの場合、
静的にも動的にも自分が受けた感動を、
思いっきり自己表現してみる楽しみを覚えた。

日常生活の中で、社会活動が極めて少なくなってきた此の頃、
周りとの関係性が弱くなってきており、
自分が何者かが解らなくなりそうな気配を覚えるときがある。
追憶さえも怪しくなってきたと感じる途切れ感に怯えてしまうみたい。

そこで、のんちゃんは、TVに映し出される、普通に生きてきたテラいのない人々と
時間を共有して関係性を持って見るという具合になってきたのかな?

ちょっと言い訳じみているようだが、人との関係性の中で、
人は絶えず進化していると信じているので、
私は「友達を創る」ことに生活(生きること)の意味を感じ、アクション(実行)しているつもりでいる。

最後に、TVから仕入れたことば(その人に適った表現)を私流の学びとしてお教えしましょう。
ちょっとお耳を拝借!

●成功の反対は失敗ではなく、何もやらないこと。失敗は学びを導いてくれる。そのエネルギーの源は、友達をつくること、それを可能にするのは実行あるのみ。

●すべてのことは流れていく。よいことも悪いことも…。

●科学は、皆が気がついていることを言い直しているのだから、難しく威厳ばらずに受け入れればよい。

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪

看護師を続けながら子育てしているお母さんへ

看護師になる動機としては、看護師になって人のお役に立ちたいとか
苦しんでいる人のお世話をしてあげたいなどいろいろありますが、
結婚しても生涯看護師として働きたいという意思を
明確にしている人は少ないように思われ、それはどうしてかな?と。

看護学校に入学して、3~4年間もあの大変な学びの努力、
膨大な消費時間・経費を考えると、
取得した資格は、そうそう簡単には手放せない。

男性は、積極的には「結婚後も看護師を続けなさい」とは言わないのではないでしょうか?
女性もまた、結婚相手として気に入った男性の意向に沿って
決意をしているような気がしていて残念に思われます。

結婚と看護師の両立! 何が両立を困難にしているのでしょうか?
これは最近の問題ではなく、相当に長く続いている問答で、
解決し難い社会的な問題に影響されているようでもあります。

さて、子育て中の(看護師)かあさん!!
誰しもがわが子のために、昼夜24時間365日を「より良いお母さんであるために」
切磋琢磨の努力。尊敬するばかりです。

ある本に、世界の心理学者(フロイド、エリクソン、ピアジェ、バーン)の理論をベースに、
あなたが“素敵”な親であるために として書かれてあった一部をご紹介してみます。

誕生から6ヶ月:おかあさんとおとうさんにしてほしいこと
1.子どもそのものを受け入れる
2.触れる・マッサージをする・たっぷり抱っこする
3.おなかをすかせたらその時におっぱいをやる
4.お互いに助け合って休養をとる・お互いを自分たちを大切にする

これは、「今、このとき、ここから始まる」話なのですが、働くお母さんにとっては、
四六時中のたっぷりな時間を保証するのは難しい話です。
しかし、「私の子育て」としてわが子への誇り形成ができるということを希望的に考えてみれば、
「今・このとき・たとえ寸時でさえも、ここから始まる」無条件の、
いい感じのストロークを与え続ける。
つまりは、帰宅したとき、保育所に迎えに行った時、
しっかりハグしてあげるだけでも違うってことです。

ノンちゃんは、これを基本に銘じておくならば、
多忙に働く看護師をしながらも、子育てを両立できると思っているのです。
但し、多忙すぎる看護職と子育てについて、
健康を害してまでも両立させようと言っているのではないですよ。

両親が子どもを間に、折り合いをつけあって生きていくまでには
時間もかかることではあるのですが…
子どもは一定のリズムを求める特性(欲求)があるので、
生活のリズムを早く確立していけば、
子どもなりに頭をうまく使うようになってくるってことも信じて!!

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪

久しぶりにナイチンゲールのおはなし

最近、宮沢賢治の本「いのりのことば」を読んでいたら、
どうしたものかナイチンゲールを思い出してしまいました。
私のどんな琴線に触れたのか…?ちょっと不思議な気分ですが…?

ナイチンゲールについて語るのもずいぶん久しぶりです。
ナイチンゲールは私たち看護師に
「看護する力」「看護することの意味」「看護の先にある希望」
という事に関して多くの言葉を残してくれていると思っています。

個人(患者)が持つ自然治癒能力を引き出して、ケアする看護の力は
『命の尊厳性』に問いかけることのできる力であると思っています。

看護の現場はとにかく忙しい。
看護師は常に、歩きながら(というよりは走り回りながら)、
何気なくそこそこの場を往来していながら、しっかり場のエネルギー、
患者・医療従事者チームのエネルギーを感じ取り(看護体感)、構造を読み、
何らかの意思決定に向けて思考を整え協働への作業に向かって歩いています。

ここで言う「看護体感」というのは私流の表現ですが、
医療現場を隈なく歩いて看護り立ち止まりながら、
そこに患者さんがいる限り、プラスマイナス何らかのエネルギーを感じとり、つらい悩みに共感し、
闘病に疲れ、無気力になりそうな患者に寄り添って看護り観察するということなわけです。

さて、ナイチンゲールへの切込みをしてみようと試みてみましたが、
なかなか彼女の残してくれた言葉は深くて遠大です。
到底及ばない話に首を突っ込んでしまいましたが、
どなたか彼女の残した看護論から学びえた一辺の看護体験を教えていただけるとうれしいです。

私たちの看護疲れからのリセットは、自然の風景や小さいころの思い出に巡らせて見ると、
知らず知らずのうちに癒されている自分に気づくことがあります。

私たちの足は前を向いていますよね。
その足は否応なく前に向かって進むようになっているのですから、
仕事中歩いているとき、ちょっと意識して想いを変えてみてください。
どんなに嫌なことに出くわしても、前を向いて歩けば、
どこからともなく顔がほころんで勇気が湧き出でてきてくれますから。これほんと!

にほんブログ村 病気ブログ 看護・ナースへ
よろしければクリックお願いします♪